ヨハネの福音書6:54
(起)「信じる心こそ、本当の価値あるものである」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、ヨハネ6章54節に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ」と
書いてありますが、私たちにとって、イエス様を信じることが、イエス様の肉を食べ、血を飲むという
ことです。そして、そのイエス様が流して下さった血というのは契約のしるしですから、それを信じ
受け取った者は、永遠の命の約束に預かることができるのです。この聖餐は、イエス様が、「私を
覚えて行いなさい。」と言われました。これがこの御言葉の意味であり、真理です。
ところが、カトリックでは、聖書に書かれてあるこの真理を、単なる「形」に変えてしまい、
「教会に来てミサを受け、司祭からパンとぶどう酒を頂くことによって、永遠の命に預かれる」と
教えてきました。ですから、日本のキリシタンの人々は、ミサを受けることによって、それを自分自身の
目に見える形の保証としてきました。ですから、ある意味でパラダイスに対する希望と確信を持つ
ことができ、とても身近な感覚を持って生きていたと言えます。しかしながら、形は、絶対主が一番
嫌われるものです。なぜなら、形を与える人に権威と、行う人に誇りを持たせるからです。栄光は、
絶対主だけにあります。形は、心が無くても行えます。しかし、信仰は本気の心と意志が必要であり、
それを求められることです。
(転)では、私たち(プロテスタント)はどうでしょうか。プロテスタントは、「天の御国に入れ
られるのは、信じる信仰による」という考え方が基本であり、カトリックのような「形」を嫌っています。
すると、カトリックの人たちと同じような形の確信を持つことができず、パラダイスに対するイメージ
も明確に持つことができないという問題は確かにあります。だから、伝道をする時も、自分自身がパラ
ダイスに行くのだという確信が、自分の信仰のみに架かっていますので、自分の信仰の弱い状態では、
なんとなく白けた気持ちになってしまい、はっきりと救いを語ることができない中にあります。
また、自分自身の罪に対しても、「自分の罪は分かるけれども、罪の赦しの確信が持てない。だから、
赦されたという感覚が入ってこない」と、多くのクリスチャンの悩みがあるのです。
またカトリックでは、「告解」というのがあって、神父に罪を直接告白して、赦しを得ます。しかし、
プロテスタントは、人に告白せず、直接、絶対主に祈り告白します。しかし、直接的な赦しのことばは
ありません。また、プロテスタントでは、御言を信じることが全てです。ですから、「たとえ死んでも、
御霊によって創り出される新しい身体に変えられる」ということは、聖書を読めば分かりますし、
そのような話を聞いた時には、「あぁ、感謝だ。」と思います。でも、どうしてもそれを自分自身の
心の中で実感できないのです。また、6:35でイエス様は、「わたしに来る者は決して飢えることが
なく、わたしを信じる者は決して渇くことがありません」と仰いましたが、私たちは今、イエス様を
信じているにもかかわらず、実際は、渇いています。「信じる者に働く全能の力がどんなに偉大か」
ということも知りませんし、実際に味わったわけでもありません。もちろん、しるしも見ていません。
カトリックでは、「ミサ」によってパンとブドウ酒を飲み、それを形にして味わっています。しかし、
そんな中にあっても、私たちが信じてここまで来ることができたのはどうしてでしょうか。
それは、御霊の内住があったからです。今まで、いろいろな疑いや不信感を持つこともあったでしょう。
しかし、その時にはこの御霊さまを通して解き明かしがあり、それによって私たちは励ましを受けて
来ました。確かに、目に見えるしるしや形があれば、信じやすいでしょう。でも、しるしを見たからと
言って、必ずしも信じ続けていくことができるとは限りません。多くのしるしを見た人たちが、
イエス様の十字架の時には皆離れて行き、あの弟子たちでさえ、逃げて行ってしまったのです。
それと比べるならば、私たちは一つもしるしを見ずして、ここまで来たのですから、本当に信仰の価値
があると思いませんか? この世界には、私たちと同じように、苦しみながらも信じてきた人たちが
たくさんいます。私は、これからそのような人々を励まし、助けていきたいのです。
それが、この終わりの時代に私たちに与えられた働きです。
(結)ですから、私たちは、絶対主の前にあって、この信じる心だけは通さなければいけません。
最後の最後まで絶対主を信じていく、その心を表していくことこそが、私たちの造られた目的であり、
一番価値のある生き方です。 この世で成功し、自分自身の願望を達成して、人に認められる人間に
なったとしても、絶対主に受け入れられるとは限りません。私たちは、すべての事において、絶対主に
認められることを願い、絶対主に望みを置き、地上ではなく天を目指して行く者です。56節には、
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもその人の中に留まります」とある
ように、イエス様は、信じ続ける者のうちに留まって下さるのです。なんと、感謝なことでしょうか。
これを、自分の信仰の生涯で味わっていく者となりましょう。そして、私たちはこのイエス様によって
生きていくのです。どうか、この生涯を最後まで通していこうではありませんか。 |
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