ガラテヤ6:11〜16
(起)「私たちが誇りとするものは何か」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、パウロさんの手紙は、ほとんどが口述筆記ですので、文章として分かり難い
ところもたくさんあります。特に14節は分かり難い節です。「この世は私たちに対して、
十字架につけられ、私たちもこの世に対して、十字架につけられた」とありますが、この言葉を
置き換えると、「この世は、私たちにとって関係のないものであり、私たち自身も、この世とは
もう関係ない者になっている」という意味です。つまり、パウロさんが言いたいことは、
「世は無視しなさい。世にとらわれるな」ということです。では、そのことを理解していくために、
まず12節から見ていきたいと思います。「あなた方に、強いて割礼を受けさせようとしている
人々」とありますが、これはユダヤ人のことです。彼らは、「信じたなら割礼を受けなさい」と
言って、皆を律法の下に置こうとしていました。何故そう言うのかといいますと、ここにも書いて
あるように、「キリストの十字架のために、迫害を受けたくない」からです。
当時、ユダヤ教は、彼ら自身の民族の信仰ということで容認されており、ローマ帝国に従い、
貢ぎ物を納めるならそれで良しとされていました。ところが、クリスチャンに対しては、そうでは
ありませんでした。彼らは徹底的に迫害されました。なぜなら、「皇帝も庶民も皆同じ、罪人だ」
というイエスの教えは、ローマ帝国の封建制度に反していたからです。しかし、律法主義者は、
その迫害から逃れるために割礼を受けて、ユダヤ人をよそ覆っていたのです。
もう一つは、「肉で見栄を飾りたがっている」ということです。彼らは、割礼を受けることに
よって、「自分たちは絶対主に従っている」という外見だけの見栄を張っていました。それは、
人の肉を誇らせるだけのことです。しかし、私たちクリスチャンが本当に誇りとするものは、
イエス様の贖いだけであり、肉の誇りではありませんでした。
(転) では、何故、私たちクリスチャンにとってイエス様の贖いが誇りだと言えるのでしょうか。
それは、イエス様は私たちの原罪を背負って下さり、責任を取って下さったからです。イエス様は
絶対主の御子ですから、本来なら罪とは全く関係のないお方です。しかし、イエス様はあえて
マリヤのお腹を通してお生まれになりましたから、実はその時点で、原罪も担って来られた
のです。なぜ原罪を担ったかといいますと、人間の原罪を背負ったことで、その原罪の身代り
をする者だということを示すためでした。だからこそ、十字架の最後の時、「この杯を取りのけて
下さい」と原罪を担われた者の思いを口にされました。しかし、イエス様は、その原罪による罪は
犯されませんでした。だから、「父の御心通りになりますように」と原罪を表わさず、人の肉を
担って来た絶対主の御子として、死なれたのです。それが私たちの贖いです。もし、イエス様が
その原罪を背負わずに、この地上に来て、ただ死なれたのならどうなるでしょうか?
そのイエス様の死は、私たちにとっては他人事です。「罪のないお方が死んだんだ」で終わって
しまい、私たちとは関わりのない死となります。ところが、イエス様がマリヤの原罪を担って
死なれたなら、それは私たちにとって関わりがあります。なぜなら、私たちは、心の中に原罪が
あるが故に罪を犯してしまいます。しかし、絶対主の御子が、マリヤの原罪を担うことによって、
私たちの原罪の身代わりとなって、その責任を取って下さったなら、私たちは御国へ行くことが
できるからです。そして、その後の私たちが地上で犯す罪過に対しては、「その責任だけは、
自分でちゃんと取っていきなさい。謝るべきものは謝りなさい。それ以上は問いません」と言って
下さり、その「砕かれた悔いし心だけで良い」と言って下さっているのです。イエス様の贖いが
どんなにありがたいことかが、これで分かると思います。私たちが誇るとしたら、これだけでは
ないでしょうか。
(結) このことが分かったら、私たちはもう世にとらわれて、世の価値観で生きる必要は
ありません。罪赦されて、御国の子とされたのですから、「悔いし砕かれた心」を持って、地上
で犯した罪過の責任ぐらいは、自分で負って行けばいいのです。なぜなら、原罪の罪の裁きは
終っており、私たちの生れながらの罪も全部、イエス様が代わりに責任を取って下さったのです
から、私たちはもう罪に対する怯えを抱く必要はありません。現実に失敗をしてしまったら、
逃げずに正々堂々と謝って行けばいいのです。そして、恥かいて行けばいいのです。たとえ恥を
かいても、イエス様が「それでいいのです」と仰って下さいます。その罪の責任は、イエス様が
すべて負って下さったのですから、御国の保証があるのです。
ですから、私たちは「イエス様ありがとうございます」と、イエス様の十字架を誇るのです。
割礼のあるなし(外側)の問題ではありません。むしろ、イエス様にあって、新しい創造の中で
生きることこそが重要なのです(15節)。これは、私たちにとって、世は死んだものあり、
私たち自身も、世に対して死んだものだからです。このイエス様の救い、贖いの中で生きていこう
ではありませんか。 |
|
|
|