(起)「自分の意志で反逆の精神を砕く」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちの教会は、20年前からずっと御霊に満たされることを求め続けてきました。
しかし、そのためにはどうしても越えなければならない山があります。
それは、「私たちが砕かれた心」を持ち、「空っぽの器」にならなければならないということです。
ですから、私はそのことが分かってからは、ずっとそこに焦点を合わせてメッセージを語ってきました。
ところが、私たちの教会は、20年以上学んできたにもかかわらず、未だに一人一人が「砕かれた
悔いし心」を自分のものにすることができないという問題があります。「砕かれた悔いし心」とは、
自分自身が「できない」と思っていることを砕くことです。もし、「できないものはできない。」と
言って、逃げて自分自身を守るなら、それは絶対主よりも自分自身を立てるということであり、
絶対主に反逆することになります。
私たちは、この「反逆の精神」が子どもの頃から染みついており、現在までそれを温存して持って
いるのです。
(転) では、その反逆の精神を砕くのは誰でしょうか。それは、私たち自身です。今日お読みした
中の27節には、「人にはできないが、絶対主にはできるのです。絶対主には何でもできるから
です。」とありますが、この「出来ない」と思っている部分に関しては、絶対主は、手を触れ
ません。それを砕くのは、絶対主ではなく自分自身です。この心の部分については、絶対主は
関与されません。なぜなら、自由意志には触れられないからです。もし自由意志に触れられたら、
自由意志が自由意志でなくなります。私たちは、意志の弱い人間ですから、「そんなことは
できない。」と思う、この弱気な心が取り去られて、どんなことがあっても逃げ出さない強い心
に変えてほしいと願っていますが、そんなことは絶対になさらないのです。
それは何故かというと、もしそれをやってしまったら、絶対主と人間との交わりが、
心のない機械的な交わりになってしまうからです。
絶対主は、人間と心のある交わりを願っておられ、そのために人間に自由意志を与えられました。
ですから、私たちがどのように心を動かすかをいつも見ておられ、反逆の心を砕くか、
砕かないかで、ご自分のもとに引き寄せる者と裁く者を決められます。もし、私たち自身が反逆の
心を砕かなければ、絶対主の所に行くことはできず、裁きしかありません。でも、逆に反逆の心
さえ砕いていけば、「それだけで良い。」と絶対主は言って下さいます。そのことが、
マルコ3:28〜29、ルカ12:10に出てきます。「絶対主を汚す言葉も、人の子に言い逆らう
ことも赦されますが、聖霊を汚す者は赦されない。」とありますが、「聖霊を汚す」というのは、
御霊様の語りかけを無視し、逆らうことです。私たちの内におられる聖霊様は、反逆の精神を
表すことを絶対に赦されず、いつも「それだけはやめておきなさい。」と語りかけておられます。
ですから、私たちが反逆の精神を表すということは、永遠の罪に定められることであり、
絶対に赦されないことなのです。
しかし、少なくともそれさえ砕くならば、それ以外の罪はすべて赦して下さり、「それで良し。」
と言って下さるのです。
(結) この反逆の精神は、死ぬまでなくなることはありません。
だからこそ警戒し、この思いが出てくる度毎に、砕いていくのです。これが、自分の意志を使って
生きていくクリスチャンの心ではないでしょうか。しかし、「人にはできないが、絶対主にはできる
のです。」という、この御言葉は嘘ではありません。私たちが反逆の精神を砕き続け、そして天に
引き上げていただいた時、絶対主は私たちの心の中の罪を全部取り去って下さるからです。
今は、自分自身の心の中にあるどうしようもない罪や反逆の心は、砕いても、砕いても出てきます
が、自分には本当にできなかったことを、絶対主はその時には全部して下さいます。
絶対主にできないことはないからです。絶対主は、「反逆の精神を全部なくしてしまえ。」とは
言われていません。私たちがなすべきことは、一点だけです。今まで、「自分自身が砕く」という
ところを曖昧にし、「自分にはできないから絶対主に変えてもらいたい。」と願ってきたことは
間違いであったことを認め、「それは私が砕くところですから、砕きます。」と、「反逆の精神を
自分で砕いて」この心で主に従って行こうではありませんか。 |