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 2014年3月2日 



それをやり遂げなさい



第Uコリント8115


(起) コリントの教会に対して、パウロさんが勧めている心、「それをやり

遂げなさい」と言われた意味
を学んでいきたいと思います。


(承) さて、コリントの教会の人たちは、「飢饉の中におかれていたエルサ

レムの教会の人たちを助けたい」、という思いを他に先んじて持っていた教会

でした。しかし、コリントの教会は異邦人の中で生れた教会です。ですから、

これまでの偶像礼拝の習慣や、異邦人の中にあるこの世の考え方から抜け出せず、

この世の見方や考え方が妨げとなって、彼らの内に心変わりが起こってきました。

この世の考え方とは、「この地上の歩みの中で、不幸は味わいたくない。自分の

都合がまず第一だ。自分たちができないことはできない。損をするようなこと

はしたくない。この世で苦しまないように生きて行きたい。」という考え方です。

すると、自分たちのことだけで精一杯になり、他人のことにまで心を向けていく

ことができなくなってしまいます。たとえクリスチャンであっても、天のことより

も現実の今のことが大事になってしまうのです。しかし、この地上というのは

どこまでいっても罪の世界で、必ず苦しみがあり、本当の幸いはありません。

私たちにとって本当の幸いは、天にしかないのです。即ち、天にある罪のない

世界です。
パウロさんは天にある本当の幸いを知っていましたから、「イエス

キリストを信じた者たちが目を向けるのは天であり、そこに目を向けるならば、

この地上で苦しんでいる人たちの助けもできる」と考えていました。

そのパウロさんの心を最初に受け止め、「エルサレムの教会を助けましょう!」

という気持ちを持って始めたのがコリントの教会だったのです。だから、

「ぜひその恵みのわざを、やり遂げてほしい。それを途中で諦め止めてしまわない

で、遣り遂げてほしい」というのが、コリントの教会に対するパウロさんの

願いでした。


(転) では、私たちの場合はどうでしょうか。私たちは、20年前に聖霊の

バプテスマを求め始めました。聖霊のバプテスマというのは、上から来る賜物、

主からの力です。そのことはちゃんと聖書に書いてありますから、それをそのまま

信じて願いました。ある教会では、「自分たちの信仰のあり方は、反カリスマ

(賜物)です。」と、公に表明している教会があります。しかし、私はそれを

聞いた時、「絶対主から来る力を受けずして、自分たちの力だけで、何が出来る

のだろうか」と、疑問に思いました。例えば、説教の賜物、教える賜物、伝道する

賜物、みな自分の力では出来ません。これらの賜物があって初めて奉仕が出来る

のです。この主から来る賜物なしに、伝道が出来ましょうか?私たちは、主から

力を頂いて、これからの終わりの時代に力強く働きを始めていく教会です。


聖霊のバプテスマを求めたということは、そういうことを意味します。聖書の

中には、「1日で3千人、4千人が救われた」という記事がたくさん出てきます。

主の働きをするなら「そうでなくちゃおかしい」と思いませんか?この聖書に

ある綺麗事の信仰を20年前から願い求めてきたのが私たちの教会です。


ですから、絶対やり遂げるのです。地上的な考えで、損得で考え打算的に

なったら、止めてしまいます。しかし、主の前にあって決めたことを、

その通りやっていくのです。
私たちが主を信じてそこに向かって行こう

とするなら、主は助けて下さいます。しかし、私たちがそこで「無理だ」

と思って諦め、棒に振ってしまうなら、主の助けも何もありません。私たちの

心には、諦めた方がいいと思う、裏の心もあるのは事実です。自分にとって

難しいことや、嫌なことや、困ったことが起こってくると、「こんな綺麗事で

はやっていけない」と考えてしまい、ついつい自分の計算で物事を行おうとする、

裏の心が出てきます。しかし、12節に書いてありますが、私たちが「やり遂げて

いく」ことは、「自分の持っている能力を超えてやれ」ということではあり

ません。たとえ困難が起こってきたとしても、この地上を見て後ろを振り向いて

しまうのではなくて、天にある永遠のものに目を向け、「初めの純粋な心を表して

やり遂げなさい」ということです。


(結) 私たちのすべての罪の代価は、イエス様の十字架によって払われています。

ですから、私たちは、このことを十字架を見る度に意識します。そうすれば、

「イエス様に従って行く」という、初めの心に戻れます。絶対主の前にあって、

綺麗事の心が通らないわけはありません。
聖霊のバプテスマも絶対に与えられます。

なぜなら、「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」と明確に預言されて

いますから。私たちはこのことを確信して、最後までやり遂げて行きましょう。



                                      

  
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