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2014年11月30日    



『なおも悔いし砕かれた心』



使徒の働き27章1~26節


(起)「なおも悔いし砕かれた心」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、10節をみると、「この航海では、積荷や船体ばかりでなく、我々のいのちに

さえも、危害と甚大な損失が臨むことと思います」と、パウロさんは百人隊長に忠告をしてい

ます。ここで、パウロさんがここまで明確に伝えたのは、御霊や御使いの示しがあったとは書いて

ありませんが、絶対主からの確信があったからです。しかし、百人隊長は船長や航海士の方を

信用し、航海を続けようと思いました。折しも、丁度南風が吹いてきたこともあり、「よし、

この風に乗って行こう」と、船長達は、勢い勇んで出帆しました。ところが、その風は突然暴風

に変わり、船はどんどん流されて荒波に飲まれて行ったのです。そして、次の日には積荷を捨て、

三日後には船の装備まで捨ててしまいました。


(転) さて、もし、私たちが百人隊長の立場だったら皆さんはどう判断したでしょうか? 

 パウロさんの忠告をそのまま受け止め、出帆を止めたでしょうか?考えてみて下さい。

この船長の場合は、これまでずっと船を動かしてきた自分の経験の中で考え、判断をしました。

だから、パウロさんの言葉より、自分の判断を優先しました。だから、百人隊長もそのまま理解し、

パウロの言葉を受け止めることをしませんでした。確かに、パウロさんは航海のプロではあり

ませんが、もし百人隊長の内に、パウロさんが言わんとすることを遜って聞く気持ちがあった

なら、受け止めることができたと思います。それは、現在いるラサヤの港で留まり、春まで待って

出帆しても良かったはずですから。また、「ピニクスまではわずかな距離ですし、危険だと言う

のなら、あえてこだわる必要はない」という判断ができたと思います。そのためには、これまでの

経験を通して培ってきた自分の考えを横に置いて、自分の我を引かなければなりません。

それが、「悔いし砕かれた心」です。また、悔いし砕かれた心とは、怒られた時に、「自分が

間違っていました」と、すぐに言えるかどうかです。21節を見ると、パウロさんは「あなた

方が、私の忠告を聞き入れて、出帆しなければ、このような危害と損失に遭わなくてもよかった

はずです」と、強い口調で語っていますが、このように言われた時、「だから自分の我を立て

ちゃいけない」と分かった者は、心の中に、人の考えを引いて行こうとする思いが入ってくる

でしょう。そして、自分の心を砕いて、「パウロさんの言うことは、聞いて行くべきだ」という、

遜った気持ちを持つことができます。
悔いし砕かれた心を理解するチャンスは、実はこういう時

なのです。
失敗をして、どうにもならない状態の中に陥った時、「初めて、自分には頼れない。

私は罪人なんだ。だから絶対主の言われることは聞いていくべきだ」ということが分かるのです。

しかし、私たちにとっては、怒られている最中に遜るのは、一番難しいことです。

でも、その時に、ふと相手の立場に立って、「なんでそこまで言うのか?、なんで怒るのか?」

と考える事が出来れば、「あ、自分のために叱ってくれているんだ、また、この事のために叱って

くれているんだ」と分かります。それが分かれば、全面的に自分の非を認めることができます。

また、その時に初めて、「相手を信頼する心」というものが分かってきます。

又、自分の過ちの責任を素直に取ることができます。責任を取るというのは、言い訳、弁解から

離れ、「自分で自分を砕いて、過ちを認めること」です。すなわち、今まで正しいと思って来た

自分の考えが通用しないということを悟り、「自分が間違っていました」と認めることです。


(結) 私たちは、この心を学ばなければ、絶対主に使っていただくことはできません。

なぜなら、
怒られることから逃げるなら、それは、いつも自分を正しいとすることで、絶対主を

拒否することになります。
それでは、絶対主から信頼されて使ってもらえるわけがありません。

私たちの教会は、イエス様から働きを任されて証しして行く教会です。そして、イエス様は、

傲慢な者ではなく、「悔いし砕かれた心」を持った者を使ってくださいます。その心を求めてきた

教会に、絶対主は、これからの働きを任せようと考えて下さいました。ですから、私たちはこの

悔いし砕かれた心を刻んでもらう必要があります。これは、自分で刻もうと思っても刻めません。

まず、私たちが真剣になって「自分の心に刻まれたい。なんとか教えて下さい」と、願って行か

なければ刻まれません。そして、絶対主によって私たちの心に刻んでもらうのです。でなければ、

この心は、入ってきません。それは、人間にとって一番嫌な心だからです。

人は、誇ることはしても、遜ることは嫌います。だからこそ、砕かれた心を持って、皆が一致して

始め出す必要があります。心に刻んでもらうために、必死になって祈って行きましょう。

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