使徒の働き8章9~13節、18~25節
(起) 「聖書を通して絶対主の心を汲み取っていくために、私たちに必要なこと」について
学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちが聖書を読んでいく中で一番難しいことは、御言葉の背後にある絶対主
の心を汲み取っていくことだと思います。例えば、旧約聖書では、絶対主に捧げものをする時、
傷のない子羊を捧げます。それは、「絶対主の前に、最善のものを持って行く」という心から
出るものです。例えば、私は、献金のお札は、まだ誰も使ったことのない新札を献げます。
ところが、私たちは御言葉の表面だけを見て、「聖書にこう書いてあるから、やらなくちゃいけ
ない」とか、「やったからいいでしょ」と、律法的に考え、形だけを追い求める方向に向かって
しまいます。それは間違っています。一つ一つの戒め通り行うことが大事なのではなく、
それをする心の動機が大事なのです。しかし聖書には、その心の動機がどういうものなのか、
ということまでは詳しく書いてありません。だから、私たちが聖書を理解していくことの
難しさが、ここにあるのです。
(転) では、私たちはどのように聖書を読んでいけば良いのでしょうか。それは、絶対主の
側から見ていくことです。絶対主は私たちの命の主であり、聖なるお方なのですから、絶対主の
お方の考えは全て正しいのであって、私たちが口を挟む余地はありません。ですから、聖書を
よく読んでいくと、「絶対主は、ご自分に対して信頼し、尊敬し、愛する者たちの心を見て
おられ、その者を愛して下さる。」ですから、やっぱり「外側ではない」ということが見えて
きます。新約聖書では、マタイの福音書に山上の垂訓という厳しい教えがありますが、
この教えも、やはり「心が大事だ」ということが語られているメッセージなのです。いくら
祈りや、施しをしようと、心がなければ何の意味もありません。むしろ、「隠れたところで
やりなさい」とイエス様は言われ、「あなたの施しが、人に分からなくても、わたしが分かって
いるから、それでいいでしょう。」と言われるのです。ここにイエス様のメッセージがあります。
このように、私たちは絶対主の目線から物事を見ていくなら、御言葉の真意が見えてきますし、
その心で見ていけば、聖書の真理も見えてくるのです。
そこで、今日お読みした箇所に戻りますと、ここに出てくるシモンという人は魔術師でしたが、
彼も福音を聞いて信じ、バプテスマを受けました。ところが、その後、使徒たちを通して人々に
聖霊が下るところを見て、「自分も使徒たちのような力が欲しい」と思って、金を持って来たの
です。彼の心は歪んでおり、まともな心ではありませんでした。だから、彼のその心を見た
ペテロは怒ったのです。これを見て分かるように、信仰というのは心であり、心によってすべてが
判断されるということです。シモンは、皆と同じように信じ、バプテスマを受けました。
しかし、だからといって受け入れらたかというと、そうではありません。彼の心は歪んでおり、
苦い胆汁と、不義の鎖の中にあったため、受け入れられなかったのです。絶対主が見ておられる
のは、バプテスマを受けたという外見ではなく、「絶対主の前にどのような心を持って信じたか」
という部分です。すなわち、私たちが「本気で絶対主を信頼し、尊敬し、本気で従っていきたい
という心があるかどうか」を見られているということです。
(結) 私たちは、もう一度原点に戻り、「旧約聖書の中には何が書いてあるのか。」
「新約聖書では何を教えているのか。」ということを、自分の目線ではなく、絶対主の目線から
見ていくべきです。そうすれば、「あぁ、そうか。形じゃないな。心だな」と見えてくる筈です。
逆にそれでないと、聖書を読んでも、表面だけしか分からず、結局は自分自身の判断に頼り、
自分自身の考えを優先するようになってしまいます。確かに、自分の判断で決めた方が手っ取り
早いでしょうが、それをしていたら、すべて自分の能力の中でやることになります。
すると、人間の能力の範囲内でしか物事が起こりません。すると、「聖書に書いてあることが
今日も起こる」ということを味わうことはできなくなります。人間の能力をはるかに超えた事が、
絶対主を信じる者の内に現れるのです。
ですから、私たちが願っていることは、「絶対主を信じる者の内に働く全能の力」です。
ならば、私たちは「まず、絶対主の国と、絶対主の義を求めていく生き方」を始めていきましょう。
自分の損得の「我」を求めていくのではなく、常に絶対主の目線で、「絶対主にあって正しい
ことを選んでいく」というところに立って選択して行きましょう。この心こそ、クリスチャンの
歩みです。 |
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