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2013年 NO.475 |
『教会の一致』 |
クリスチャンが、一致を生むための心とは、「悔いし、砕かれた心」です。 なぜなら、人間の心の奥深くには、損得勘定が強く、自分を守ろうとする「強い我」が あります。外側は、如何にも信仰深く、柔順(従順)そうに装うことができても「心の 奥底の我」は、決して消すことはできません。ひとたび面子と正義感が傷つけられたら、 「堅い我」の虜となり、平素の柔和さは吹っ飛んで行きます。ですから、「イエス様の側に 立つか、自分の我に立つか」これが、クリスチャンの取り扱われる心の問題です。 この「我」を砕くことが、絶対主に求められています。そうでなければ、イエス様は、 安心して私たちを用いることができません。いつその人の心が変って、委ねていた仕事を 放棄するか分らないからです。「鋤に手をつけて、後を振り向く者。」こんな クリスチャンがどんなに多いことでしょう。 しかし、私たちは、日本のキリシタン殉教者の心に触れました。 彼らは、「死に至るまで忠実に主に仕えて行った人たち」です。その彼らに共通する 心は、「悔いし、砕かれた心」です。それは、「この後、イエス様のお裁きの前に出ます」 という彼らの我を砕いたことばで分ります。人は赦しを願っても、裁きだけは避けようと 必死になります。しかし、彼らは、我を退ける心を持っていたので、「裁きを受けて当然」 という心を持てたのです。その心を、絶対主は「蔑みません。見下げません。」人は裁き を受けるのを極度に嫌います。しかし、彼らはその「我を退ける心」を持っていました。 だから殉教出来たのです。その心を持っていなかったキリシタンや宣教師たちは、 背教して行きました。ですから、主は、私たちにその我を砕いて退ける「砕かれた心」を 求められるのです。そして、我の砕かれた心によってクリスチャンの一致が生まれるの です。それは、イエス様とストレートな交わりのラインが生まれてくるからです。 私たちは、この心を求めてきました。それは「空っぽの器に油が満たされる」ためです。
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