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2013年 NO.460 |
私たちは、自分のしたいと思うこともできない惨めな人間です。 パウロは、「私は、何という惨めな人間なのでしょう」と言いました。それは、 「内なる人として創造主の律法を喜んでいるのに・・・罪の原理の中に、私を虜にして いるのを見るからです」と語っています。私たちも、自分の肉の性質の中には、善が宿って いないことを知っています。それは善をしようとする意志があっても、それをする力が ないからです。そのことが本当に分った時、私たちは、本当に惨めな自分を見るのです。 それなのに、「自分には、これしかしょうがない」と言って言い訳し、自分を守ります。 何故でしょう。「しょうがない」という自分の義が心の底にあるからです。それを砕くの が「砕かれた心」です。すると、あと残るのは、心の中のイエス様に対する本心だけに なります。頭が勝って、心をバカにしてきた人間は、この心の中にのみ真実があること を知りません。創造主が求めておられるのは、「砕かれた悔いた心。主よ、あなたは それをさげすまれません」(詩篇51:17)。私たちの創造主は、私の命も、生きる 環境も、この地球の法則も、天の万象も全て創られた方です。それなら、その方に従う のは当然のことです。ですから、クリスチャンは創造主が分ったら従うことが本分です。 それなのに、創造主を信じながら、自分の考えに立つのはどうしてでしょう。 私たちの心の奥底で、「しょうがない」という義をもっているからではないでしょうか? 私たちは、言い訳のできない罪人なら、心の底の義を砕いて創造主に全面的に従って いきましょう。 |
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