1606年、秀吉のキリスト教禁教令が出てから19年後、ペテロ岐部は有馬の
セミナリヨ(信徒神学校)に入学し6年間の学びの後、本格的な司祭の道を求めて
インドのゴアに渡りました。しかし、現地の管区長の偏見のため受け入れを拒否され、
単独陸路を通ってローマを目指しました。途中、パキスタン、イラン、イラク、ヨルダン
の砂漠を通り、言葉も風俗も分らない中での一人旅は、生死をかけた決死行であった
のです。そして、2年をかけてようやくローマに到着した時、すでに彼を受け入れない
ようにとの回状がマカオから届けられており、彼の志を打ち砕いてしまいました。
しかし、現地の神父等の尽力を待って神学生となり、司祭に叙階されました。
それからローマを去って、1630年ついに坊ノ津に上陸します。19才で日本を
出発して16年間の歳月が流れていました。35才でした。
それから、徳川幕府の禁教令の取り締まりの厳しい中8年間も活動し、命を懸けた
キリストの証人となって行ったのです。彼は、フェレイラの背教を知った時、夜中に
山を下りフェレイラと会って、「一緒に奉行所へ行って背教を取り消し、私と共に死に
ましょう」と執り成しています。フェレイラは断ったのですが、岐部は、いつでも死ぬ
覚悟をもって宣教していました。そして、潜伏しながらの伝道が困難と分った時、宿主
に拷問の危害が及ぶのを案じて自ら捕えられ、1638年に穴吊りの刑と、焼けた
鉄棒による拷問によって絶命しました。
そんな彼が、イエス様とお会いした時、そこに偶像礼拝の過ち、マリヤ礼拝、告解、
聖餐式、洗礼など、自分が伝えた「まがい物の教え」に驚き、人々に間違った教えを
渡してしまったことを悔い、この地に留まり続けたのです。
しかし、彼の心の中にあった「イエス・キリストの救いこそ、私たち罪人にとって
本物の救いでございます。」と、悔いし砕かれた心をもってローマまで行き、そして
日本に戻って来て、命がけで伝えた働きを、イエス様は、「彼をそのままに放って置く
ことはできません。それをしたら、わたしがわたしでなくなります。」と言われ、
「多くの日本人に、わたしのことを語り継いでくれてありがとう」と慰めて下さった
のです。
本当にイエス様の心は、砕かれた心の行動を尊んで下さるのです。単なる行いでは
ありません。イエス様の為に命を懸けた真実な行動の証しを、放って置かれるわけが
ありません。私たちも終わりの時代にあって、この日本人の精神を受け継いで、
イエス様に砕かれた心をもって従って行きましょう。
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