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 2013年7月7日 




『絶対主に対して自信を持つ』





 第Tコリント118216




(起)「絶対主に対して自信を持つ」ということを学んでいきたいと思います。

(承) さて、まずは118節にある、「十字架の言は、絶対主の力」ということについて

考えていきたいと思いますが、「十字架の言」とは、「イエスキリストが私たちの罪のために

死なれたこと、3日目に甦えられたこと、そして、このイエスキリストは絶対主の子である

ということです。」私たちが、この方によって、自分の罪の贖いが完全になされたという

ことが、はっきりと理解できたのならば、「絶対主の御子が、自分のために一切の罪の

責任を負って下さったことで、私の救いは完全だ、絶対だ」とわかります。

これは、信じる者にとって確かな「力」です。ですから、「この絶対主の力をいつも

味わっていきたい」と思います。なぜなら、私たちは、もともと自信のない者で、

フラフラした自分は嫌だからです。ですから、「自分に対して自信を持ちたい。

自信を持った生き方をしたい」と思うのです。

ところが、信じる前も自信がありませんでしたが、イエス様を信じてからも、自分自身に

対する自信は持てていません。なぜでしょうか?それは、絶対主に対して「善を行いたい」

と思っても、それができない自分を知り、ますます自信を失っているからです。これでは、

自信というものが、自分に縁がないものになってしまいます。しかし、これは自信という

ものの理解が間違っているからです。

なぜなら、自分に根拠を置いて自信を持とうとしているからです。真実な自信は、自分の

性格や、自分の能力、知恵によって持てるものではありません。たとえ学校で良い成績を

とっていたとしても、それは、人間が持っている能力の一部であって、それだけで

「自分は知者だ」と錯覚するのは、愚かなことです。絶対主の目から見たならば、真の学者

や知者はどこにもいません。(120節)


(転) では、私たちはどこに根拠を置いて自信を持ったらよいのでしょうか。

それは、絶対主です。この絶対主は、絶対ですから、この方に信頼してやっていけば

間違いありません。私たちは、ここに自信を持つ根拠があります。これは、知恵のある者

であろうが、この世の取るに足らない者であろうが、同じです。身分にも関係ありません。

たとえ知恵がない者でも、絶対主に頼ってやっていけば、「あぁ、これでいいんだ」と自信が

生まれます。逆に、この世の権力者や、身分の高いものや、知恵のある者は、絶対主に頼らず、

自分に頼りますから、自信が持てなくなります。


人間がどんなに知恵者であっても、人間には、限界があるからです。また、主を信じると

言っている
でも、「私は信じています」と言いながら、手っ取り早く結論を出したいために、

人間的に人に頼り、政治家に頼って思い通りにしようと賄賂さえ差し出しています。いつも

自分の考えに頼り、そして不安になり、恐れを持ち、疑いつつ絶対主により頼もうとします。

こうして自分の感情に頼った瞬間に、信じることに臆病になり、怯えて信仰は崩れます。

「『主よ、主よ』と言う者が、皆天の御国に入るのではありません」(マタイ721節)。

絶対主は人の心を上から見ておられますから、そんなことは通用しません。私たちは、なぜ

絶対主に頼るのですか? 私たちの命は、絶対主によって造られているからです。こんな

精巧な人間の仕組みは、絶対に偶然ではできません。叡智を持った創造主によって造り

上げられ、生かされているのです。ですから、絶対主に全面的に信頼して頼るのは当然です。

ジョージ・ミュラーさんは、最後の最後まで、聖書に書いてある通りに行い、「絶対主に

頼って良かった。絶対主に頼れば間違いない」ということを証ししました。

この信仰の自信を、一人一人が持たなければなりません。私たちは、確かに弱い者です。

Tコリント23節で、パウロさんが「弱いものを選ばれた。」と言っています。

しかし、絶対主は、「お前のような無きに等しい者が、伝道なんて出来るのか!」とは

言われません。むしろ、身分の低い、頭の悪い、取るに足らない者を選んで下さった

のですから、私たちには、特別な能力も、自分に自信を持てる根拠もありません。

しかし、この絶対主に対しては自信を持てます。ですから、パウロさんは、自分の力で

伝道したのではなく、御霊と御力の現れでした、と語っています。私たちも、それができる

のです。

(結) ですから、私たちは、へりくだって聖霊の力を求めていきましょう。現実に、

弱くても、怯えがあっても、それでもイエス様の言われることに従った者たちは、

「砕かれた悔いし心」を持って大胆に歩んでいきました。聖霊の力は、信じる者にとって

絶対主の全能の力です。この力は、信じて歩んだ者たちに与えられます。これが主からの

メッセージです。主を本気で証するために、本気で信仰の道を歩むと定めましょう。

この信仰に立っていくには、踏ん張る勇気が必要です。これは、私たち自身の意思に

かかっています。他人の信仰や、牧師に頼って、信仰を全うするのではありません。

自分の意思100%をもって信じる道を選択していくのです。
この時、「絶対主に対して

自信を持つ」ことができるのです。
    



                                      

  
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