(起) 「100%の自由意志を使って、創造主との真実な交わりをしていくこと」について、学んでいき
たいと思います。
(承) さて、私たちの教会は、20年前に聖霊のバプテスマを求め始めました。それは、牧師が
「聖書に書いてあることは今日も起こる。2000年前の主と、今日の主は同じ主なのだから、
昔起ったことは、今日も同じように起る。もしそのようにならなかったら、何を信じてやっていけば
いいのか分らない。」と語ったからです。多くの聖書学者は、聖霊のバプテスマは終わったと言います。
それは、「完全なものが来たら」、すなわち聖書が完結したら預言と異言と知識はすたれるからだ」
と言います。しかし、彼らは知識だけは、すたれたと思っていません。むしろ知識だけには頼って
います。しかし、どこに「完全なもの」が「聖書だ」と書いてありますか。文脈では、イエス様の
ことです。まだイエス様は来ていません。しかも、使徒2:16のヨエルの預言は、艱難時代と
聖霊のバプテスマがセットになっています。明らかに聖霊のバプテスマは、この終りの時代にも
あります。だから、聖書に書いてあることは、今日もその通りあるのです。
(転) さて、この牧師の話を聞いて同意した人たちがここに残りました。この事に関しては、
皆さんはある意味で受け身です。しかし、私たちには、絶対主から100%の自由意志が与えられて、
その自由意志によって信じたのですから、決して受け身ではないのです。信仰は、常に自分の意志です。
信じたときも、自分の意志で、2000年前のイエス様を見ずして信じたのです。私たちの自由意志は、
命を造って下さった絶対主を拒み、無視することさえできます。実際に、この世の多くの人たちは、
「神様なんて信じなくても生きていける」と信じており、自分の思い通りの自由意志を働かせて生きて
います。ですから、みんな信じる事に責任があります。では、絶対主は何のためにそんな自由意志を
人間に与えたのでしょうか。それは、真実な交わりをもつためです。絶対主は、自分勝手な人間の姿を
ご覧になり、「おまえたちは罪人だ。わたしに逆らって生きている、その行動が自分でも分かるだろ。」
と、やっちゃいけないことをやっているんだということを分からせるために、律法を与えました。
そこで、現実の人間の生の姿は、「言い訳も弁解もできない。申し開きも出来ない。」罪人であること
を認めさせようとされたのです。しかし、絶対主は、今まで悪いことをやってきた人間に、「その責任を
全部取れ」とは言われませんでした。私たちは、罪のための生け贄を差し出す必要のない立場にある
のです。(18節)
それは、イエス・キリストが、私たちの代わりに、ご自分の命を差し出して私たちの罪の責任を取って
くださったからです。なんとありがたいことでしょうか。私たちは、クリスチャンになった後でも罪を
犯すような者です。「イエス様を信じます。従います」と言ったにもかかわらず、罪を犯しているの
ですから、本来なら、その度毎に罪ための生け贄を持って行かなければなりません。自分の命を何回
差し出せば良いのでしょうか。しかし、絶対主は、こんな醜い者たちのために、ご自分の御子を十字架
につけ、人間の罪の贖いを完全にして下さったのです。そこまでのことを、私たちの絶対主はやって
下さいました。絶対主の方が、人間の罪をご覧になり、責任を取られたのです。それが、100%の主権
を持っておられる絶対主のお心です。それが分かったなら、私たちは、絶対主に対して、自分の100%の
意志を使って謝っていくべきです。私たちは、自分が箸にも棒にもかからない罪人であり、自分は本当に
だめな人間で、能力のない人間、何も良いものはない。それが自分自身だ」と受け入れた時に、
不思議に平安が来るのです。絶対主が、「それで良い」と言って、受け入れて下さるからです。
絶対主からそのように言われたら、今まで遠くの方におられた絶対主に近づきたくなりませんか?
これが、絶対主との真実な交わりであり、この交わりを絶対主は持ちたかったのです。
そのために、人間に100%の自由意志を与え、絶対主の前にどういう心を持つべきかを教えて
下さったのです。
(結) このように、絶対主がここまでして下さったのですから、絶対主のために、生きて行きたいとは
思われませんか。そのためには、自分の100%自由意志を正しく使って、仕えていくべきです。
しかし、自由意志はあっても、弱く、力のない者です。だから、約束の聖霊のバプテスマを受けて、
力と賜物を頂き大胆に主に従っていこうではありませんか。私たちは、もう自分の罪の生け贄を捧げなくても
良いのです。それなら、義の生け贄を持って100%の自由意志を使って、絶対主との真実な交わりの中に
入って行きましょう。 |
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