(起) 「罪深い、弱い、惨めな自分。それで丁度」ということを学んでいきたいと思います。
(承) さて、この箇所でパウロさんが言いたいことは、14節の、「大祭司である創造主の御子、
イエスキリストがおられる」ということと、その方の完全な贖いです。アダムとエバは、サタンの
誘惑に負けて犯した罪の責任を取らず、他人のせいにしました。それと、同じ人間の罪深い肉を
取られたイエス様も肉を持っておられ、一歩間違えればサタンの誘惑に引っかかって罪を犯して
しまう可能性さえありました。
しかし、イエス様は、全ての点で私たちと同じように試みに会われたうえで、罪を犯されません
でした。そして、その聖なるご自身を至聖所に持って行き、私たちのために永遠の贖いをして
下さったのです。しかも、義務的にではなく、人間の弱さを思いやってくださり、罪の悲しみも
全部知ったうえで、その贖いをして下さいました。そのイエスキリストのおかげで、私たちは
永遠の救いにあずかったのです。(5章9節)ですから、私たちに救いを与えることができる
お方は、このイエス様しかおられません。
(転) では、そのイエス様の救いに預かっていながら、何故、私たちはイエス様に頼らずに
自分自身に頼るのでしょうか。罪人である私たちは、弱さ以外に、あるいは惨めさ以外に何かある
でしょうか。何もありません。なのにイエス様に聞き従わず、自分の考えに立って自分の思い
通りにしょうとするのは、何故でしょう。私たちは、「弱く惨めな自分こそ、それで丁度なんだ」
と言われたら、「その通りです」とただ認めるだけの者です。それが分かった時に初めてへり
くだることができます。なぜなら、「自分は罪人だ」と受け入れることができるからです。
そしてその時、「大祭司であるイエス様がいらっしゃり、創造主の御子であるイエス様が、
その姿をお捨てになって贖いをして下さった。なんというありがたいことか」と、その救いを
喜ぶことができるのです。
ところが、多くのクリスチャンたちは、そこで誤ります。「自分たちは罪人で、弱い者だ。
だからイエス様の救いが必要だ」と、ここまではいいのですが、その後で「弱いままの自分、
惨めな自分を見るだけではだめだ。何とかして自分自身が持っている力を振り絞って、
主の御心に適った道を歩み、良い働きをしなければならない」という方向に向かっていくのです。
しかし、私たちは、そうしたいと思っても、それさえもできない者であり、自分自身の中にある
ものは、罪と弱さだけです。それが、現実です。
ですから、「私はあなたのために何もできません。だから力を与えて下さい」と願うのです。
使徒行伝2:16以降にはヨエルの預言が記されていますが、ここでは、聖霊のバプテスマを
受けることと、患難時代がセットで語られています。
ですから、私たちが聖霊の力をいただいて、イエスキリストの証しをしていくということは、
世の終わりに入っていくということです。私たちは、主から聖霊の力をいただき、御霊によって
歩む道を進んでいきます。それは、ペテロさんやパウロさんに語られていたことが、そのまま
成就していくということです。また、賜物をいただき、未だかつて見たこともないことも経験して
いきます。これまで、主はご自身が絶対的主権者であることを証しをすることを我慢して
こられました。そして、逆に進化論などによって、ご自身が否定されて来たことを見過ごしに
されてきました。しかし、絶対主は、もうそれをさせません。すべての人々の心を開き、全世界を
お造りになった天地万物の主権者である創造主の存在を明らかにされます。私たちは、そのために
用いられようとしているのです。創造主が、私たちに先立ってそのことをして下さいます。
いよいよ患難時代に入っていくからです。福音書にも書いてある通り、主がおいでになる前に、
この天地は崩れ去り、太陽も月も光を失います。それが、この使徒行伝2章16〜21節に
記されていることなのです。その時代の中で、私たちは最後の最後まで福音を伝えていくのです。
それが、聖霊のバプテスマなしでできますか? もし力をいただかなかったら、自分で何とか
頑張ろうとしても、最後には逃げるしかなくなります。そして、御子を再び十字架につけて、
さらし者にすることになるのです。(6章6節)獣の刻印を押すということは、そういうことです。
(結)ですから、私たちに今必要なものは何ですか?砕かれた悔いし心だけです。罪深い自分。
弱い自分。惨めな自分。その事実をありのまま認めて遜るのです。それだけの者です。
しかし、こんな私たちにも、御霊が注がれます。私たちには、「イエス様が直接注ぐ」という
約束をして下さいました。何という尊いことでしょう。今までに、イエス様から直接聖霊の
バプテスマを受けた人はいません。特別な扱いをいただいて、働きを始めていくのです。感謝し、
主をお迎えいたしましょう。 |