(起)綺麗事の信仰について学んでいきたいと思います。
(承) さて、イエス様を信じたクリスチャンの多くは、「信じたのだから、創造主は
地上での自分の願望を達成するために、祈りを聞いて下さる。」と考え、それが信仰だと
思っています。しかし、それは自分中心な考えであって、正しい信仰ではありません。
私たちは、自分で自分を救った訳ではなく、イエス様のおかげで、御国で生きる者とされ
ました。これは100%恵みであり、私たちはただ感謝するだけです。だから、この地上でも、
御国で生きる者の生き方をしていくのです。これが聖書の教えです。
それは、地上で自分の都合や願いを達成するために生きていくのではなく、「主の御心が
なりますように。」と、自分の思いを主に委ね、主の御心が、主の主導で成されていく
ことを素直に願っていく生き方です。これが信仰です。私たちはもう御国に入る者と
されたのですから、地上の願いを追求していく必要はありません。
(転) では、この生き方を全うしていくために必要なものは何でしょうか。
それは、忍耐です。ミュラーさんの本を読んでみても分かります。孤児を育てていくこと
において、多くのパトロンによって安定的に資金を得ていけば、孤児院の経営は容易い
でしょう。その方がプレッシャーもストレスもたまりません。しかし、ミュラーさんは
一切のパトロンを拒否し、「創造主が唯一最大の出資者である。」と信じて、それを貫いて
いきました。人間的な考えに頼らず、どこまでも主の御手によって満たされ、行われていく
ことを信じ続けていったのです。そのために必要なものは、ただ忍耐です。
肉はこれを一番嫌いますが、この忍耐を学ばずして、信仰を学ぶことはできません。
私たちの場合は、あの事件を通して忍耐を学ばせられました。やられるままにやられて
混乱し、失望、落胆しましたが、それは、私たちが忍耐を学ぶための創造主のご計画
だったのです。そして今、私たちには、バイブルランドや10万名教会のビジョンが
与えられています。しかし、その志と、イメージを与えて下さったのは創造主ですから、
私たちが自分の力でそれを実現するのではなく、創造主が実現されるのです。
「自分がそのビジョンを持ったのだから、利用できるものは利用して、より早く
実現しよう」と、手っ取り早く人間的な方法でしようとする人もいます。
しかし、私たちはそこでじっと忍耐し、主がやって下さるまで信じて待つ方法を選択して
きました。創造主は、ビジョンの実現のために全部を用意して下さっていますが、
私たちが「自分の思い通り下さい。」と言っても、すぐに与えて下さらないことも
あります。しかし、本当に欲しいのなら、最後の最後まで忍耐して、主に信頼して求め
続けていく、へりくだりの心をもつべきです。この、どこまでも信頼していく綺麗事の
信仰を貫いていくなら、ミュラーさんや殉教者たちと同じように、私たちも命の冠を
受けるのです。(12節)しかし、不信仰な人は、「祈っても与えられないからダメだ。」
と、結局は人間的なこそくな手段に頼り、創造主に信頼する綺麗事の世界から離れて
いきます。それは、創造主を信じて求め続けていく忍耐がないからです。そういう人は、
創造主を敵にまわしているのです。(4:4) なんと恐ろしいことでしょうか。
(結) 創造主は、私たち全員に、さらに大いなる恵みを与えようとしておられるのです。
(4:6)ですから、聖書の御言通りに、綺麗事で生きていくべきです。私たちは、
「御言に書いてある通り、信じて待つ綺麗事の信仰が通用するんだ。」ということを実際に
味わい、証ししていくのです。聖書に書いてある通り、「死人が甦るということが、この町に
起こってくる。」と言われています。私たちは、御言葉を信じ、大胆に話していけば良い
のです。控えめになる必要はありません。自分の心を純粋にし、信じることを諦めないこと
です。また、二心にならないことです。(8節)主に用いられたいと思うのなら、辛くても、
困難を覚えても、不安になっても、信じるべきです。信仰というのは、絶対不安にならない
ということではありません。たとえ不安になることがあっても、その肉の煩いを退けて、
イエス様を信じるという忍耐に立つことです。忍耐というのは、へりくだりなのです。
主は、必ず私たちを高くして下さいます。(4:10) 主が働きを始められたら、
スピードは速いでしょう。今信じて聖霊を受けとり、綺麗事の信仰が通用するということを
証ししていきましょう。 |