『私たちはゼロの人間』
ピリピ3:1〜16
(起)「私たちは、ゼロの人間である」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、ピリピ3章を読むとパウロさんは、「何とかして、死者の復活の状態に達したい。」
と言っています。そして、救いを獲得しようと、一生懸命努力していると言っています。
私たちはここを読むと、「やっぱり自分の努力次第か」と思わされます。ところが、エペソ2章5節
を読むと、「罪過の中で死んでいた私たちが、恵みによって救われた」と書いてあります。
この二つのことは、内容的につじつまが合いません。しかし、これは両方とも真理であり、
ここに真理の二面性があるのです。
(転) では、パウロさんは何故このような書き方をしているのでしょうか?
それは、ピリピ3:2に書いてあるように、私たちを転ばせようとする悪しき働き人たちがいる
からです。「特に割礼主義者に警戒しなさい」と書いてあるように、彼らは、「自分たちは律法を
守って、絶対主の律法の中に生きている。」と誇り、異邦人に割礼がないと救われないと教えて、
誇り高ぶっている者です。3節を見ると「真の割礼主義者というのは、イエス・キリストを誇るの
であって、自分自身の肉に依り頼む者ではない」と書いてあります。しかし、これは他人事では
なく、実は私たちも、自分自身の肉に依り頼んで生きています。例えば、砕かれた悔いし心を持つ
ことに関して、「砕くという行為を自分がちゃんとすれば、受け入れてもらえるが、それをしな
ければ、受け入れてもらえない」と思い、常に自分の肉により頼みながら、心を砕こうと考えて
います。即ち、絶対主の前に何かお土産を持って行かないと認めてもらえない、という感覚が
私たちにはあるのです。ところが、私たちはイエス様を信じた時、「自分は罪を犯さない人間
になりましたから、救って下さい」と言って、救いの中に入れて頂いた訳ではありません。
違いますね!私たちは、ただ罪人のままで、「イエス様が罪の贖いをして下さった」、ということ
を信じて、その世界に飛び込んで行っただけです。何かお土産を持って行った訳ではありません。
私たちは、100%罪人であり、何も差し出すことのできなかった者です。だから0です。イエス様が
罪の解決を全部して下ったから救われたのです。ですから、私たちは自分の中には根拠を置けず、
イエス様の中に飛び込んで行くしかないのです。また同じように、救われた罪人ですから砕かれた
心の世界の中に飛び込んで行くしかない者です。私たちは、悪いことをやって叱られると、自分では
悪いと分かっていても、「それ以上言わないで!」と、怒られていることが嫌で心を閉じます。
しかし、たとえそれでも、嫌だという思いを心に入れず、「怒られるのは嫌だけど、心を開いて
聞こう」とするなら、相手の言っている意味が分かってきます。そして、初めて心から謝ることが
出来ます。それが飛び込むということです。飛び込めば、自分の罪を認めることになりますので、
皆からは白い目で見られるし、飽きられもし、恥もかきます。でも、イエス様は「それでいいんだ」
と言って下さるのです。即ち、砕かれた悔いし心をイエス様は軽んじないと言われます。
これを今、イエス様が私たちに教えようとしておられるのです。私たちは「ゼロで、罪人で、
何も出来ない者」であるということを認めさせたいのです。私たちがそうだからこそ、イエス様は
地に来て、罪の全ての贖いをして下さったのです。私たちは、この状態が自分にとって丁度なのです。
パウロさんも、そのことを味わいました。彼には、肉の誇りが一杯ありました。しかし、イエス様と
お会いした時、その誇りが全部空しくなり、自分が今まで肉に依り頼んでいたものが全て、
糞土のように思ったのです。
(結) 私たちは、ここからスタートです。そして、パウロさんが言っているように、天の御国の
中に入る恵みを、何とかして獲得しようと懸命に努めていく(12節)のです。何もない人間だから
こそ、「一生懸命やっていこう」という気持ちが生まれてきます。しかし、もちろん自分の力では
出来ませんから、聖霊の助けを受けてするのです。だから満たしが必要なのです。今年一年間、
一生懸命やりました。「イエス様の栄光を表したい」という気持ちだけで、必死で
やりました。自分が出来るからというということではありません。イエス様に与えられた力に
よって、その働きを全うし、何とかしてイエス様が下さった救いの復活の状態に達したい
からです。
この考え方が、成熟した人の考え方です。私たちには、まず聖霊の満たしが必要です。
しかし、その前に必要なものは、空っぽの器です。ですから、私たちはゼロであることを認め、
そして力をいただいて、一生懸命やって行こうではありませんか! |
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