「人の子」という語は、旧約聖書の中に何度も出て来ます。
この「人の子」は、単純に人間の弱さと、死に定められている様を強調するものでした。
しかし、ダニエル書7章13〜14節では、「人の子のような方が天の雲に乗って来られ
・・・この方に主権と栄光と国が与えられ・・・」とあり、イエス様は、ご自分を
「人の子」と呼び、世の終りに人間をさばくために来て、永遠に主権をとる方であると
言われています。従って、「人の子」とは、実質的に創造主であると宣言していることです。
しかし、マルコ10章45節では、「人の子が来たのも・・・多くの人のための贖いの代価
として、自分の命を与えるためなのです」とイエスは語られました。この場合の「人の子」
とは、贖いの代価として死ぬために生まれた者として、イエス様は語っておられるのです。
実は、創造主は、「自分のひとり子」を殺すことによって世を救おうとされました。
しかし、創造主としての特徴は、「死がない」ことです。ですから、その創造主が
「どうやって死ぬのか」ということが問題です。死がない創造主がどうやって人間の救い主
になるのか?
この使命を果たすためには、創造主が人間の形を取られなければならなかったのです。
ですから「人の子」とは、純粋に人を意味します。しかも、アダムが罪を
犯す前の人ではなく、アダムが罪を犯した後の死を持つ人間の形「罪深い肉と同じ形」
(ロマ8:3)であるマリヤから生まれました。それは罪によって世界に死が入った
ダビデの家系としてのマリヤの肉から生まれました。ですから、イエスは、その罪の肉を
精算するために十字架にかかって死なれました。そのイエスの肉は、死ぬことのできる肉
でした。しかし、イエスは罪を犯されませんでしたから、全く他人の罪の贖いの代価と
なったのです。しかしそれでは、ただ死んで終りです。ところが、創造主の子としての
立場を持っておられたため、甦られました。このことの故に、ダニエル書に記された預言
通り、永遠に主権を取るお方が、「人の子のような方」として記されているのです。
イエスは死をもって「人の子の形」を失いました。しかし甦って「創造主の子」としての
・・・
栄光に戻されました。まさに私たちの救い主は、「人の子のような方」なのです。 |
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