『御霊に従って』歩むために
ロマ書8章1〜13節
@ 「御霊に従って歩む」ための真理に心を向けたいと思います。
A さて、クリスチャンとなってからずっと、ロマ書8章1節にある「今は、キリスト・イエス
にある者が、罪に定められることは決してありません。」(新改訳)という御言の意味が、
現実的に理解できませんでした。それは、7章24〜8章にかけて急に展開が変わり、
罪に苦しんでいたパウロが、突然、「罪に定められることは無い」と言うからです。
それなら、7章15節からの訴えは一体なんだったのか分かりません。しかし、今回創造主訳の
翻訳を進めて行く中で、―「今は、キリスト・イエスの中にある人々、即ち、肉に従って歩まず、
御霊に従って歩む人々は、罪に定められることがありません。」―と公認本文にある御言葉が
抜けていることが分かりました。ですから、新改訳聖書では、省かれた本文が多く、7章にある
肉の弱さに捕らわれた惨めなパウロが、何故8章では、罪に定められることが無いといっている
意味が分かりませんでした。しかし、6章で義とされた人(アオリスト形の聖書の信仰時制)が、
「御霊によって歩むときに、罪に定められることがない」とハッキリと分かって来ると、これは、
救いの条件ではなく、現在のクリスチャンの歩みの中で、罪に定めるものがおり、それが
誰であるか分かるからです。というのは、罪に定める者の正体は、主ではなく、悪魔である
ということです。
B では、罪に定める者の正体を考えながら、「御霊に従って生きる」ことについて学んで
いきましょう。
先ず、わたしたちを罪に定めるものとは誰でしょうか?それは、告発者であり、日夜私たちを
創造主に訴えている悪魔です(黙示録12章10)。よって、8章の意味は、「古い性質に従って
歩めば、当然悪魔の攻撃に会います。しかし、御霊に従って歩めば、悪魔に攻撃されないから。」
という事です。確かに私たちは、24時間悪魔の妨げに会っています。しかし、御霊の法則は、
悪魔の働きから解放するのです。悪魔からのあおりが無くなるからです。私たちは古い肉の性質
を持っていますが、それに従って生きる義務は在りません。つまり、新しい車が与えられたの
だから、古い車に乗る義務はありません。しかしながら、この体が贖われるまでは、古い人が
生き続けます。しかし、御霊によってそれを殺すなら生かされるのです。悪魔は、いつも私たち
の古い人をあおって罪の中に誘います。しかし、悪魔は人間の意志には決して手出しは
出来ません。ただ、私たちの心の思いの中に働きかけて来ます。ですから、悪魔の妨げは、
イエスの御名によって退ければいいのです。けれども、もし私たちが、悪魔の妨げを退けず、
自分の古い肉に従えば、いつも古い人に悪霊が働き、自分中心な心で歩むことになります。
ですから、肉に従うことを拒否する砕かれた悔いし心の中に入って行かねばなりません。
その心を持ったときに、肉に従って歩まず、御霊に従って歩むことが出来るようになるのです。
ところが、砕かれた悔いた心を妨げようと働くのが、悪霊でもあります。
だから、そのことを知って退けるのです。そうすれば、キリストにあるものは、悪魔から、
罪に定められることはありません。私たちの心の奥深くに潜んで身を隠し、私たちの性格に働く
ものこそが、悪魔の総司令官です。このことに、疑問を持つ方は、5分間だけキリストに、
心を集中してください。悪魔の妨げを知るでしょう。また、失敗したり、叱られたときに顕著に
働きます。そのときは謝っても、後でむっとしたり反抗的になったりします。また、心を砕こう
とすると、「本心じゃないだろう」とか、「本心じゃないのに謝ってもウソになるだろう」とか
言って、砕かないようにあおってくるのです。私たちはこの悪魔に立ち向かわねばなりません。
この格闘は、血肉ではなく、悪霊に対するものです。この戦いを無くして御霊によって歩むことは
出来ません。私たちの武器は、御言葉の剣です(エペソ6章13〜17)。攻撃の武器は、
この御霊の剣だけです。後は、デフェンス用です。ですから、弱気にならず、立ち向かって
いくなら、御霊に従って生きる者とされていくのです。
C 「御霊に満たされるために必要なものは、砕かれた悔いた心です。」この心なくして働きは
出来ません。ですから、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かい、砕かれた心をもって、御霊の中に
歩んでいきましょう。 |
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