@ クリスチャンにとって中心的教理であるロマ書6〜8章に、目を留めていきたいと思います。
A さて、私たちの救いは恵みによります。
それは、キリスト・イエスの贖いの故に、値なしに義とされるからです。もしこれが無かったなら、
努力で一生涯、自分の罪と戦っていかなければなりません。例えば釈迦のようにです。
彼は、なぜ人間には苦しみや悲しみがあるのかと悩みました。そして、修行によって、
ぼんのう ごう
その原因である欲望(煩悩)や執着心(業)を無くせば良いと悟りました。その悟りが
「無の境地になることだ。」と分ったのです。それは、この世のすべてのものは、決して永続する
者はなく、全ては鐘の音のように消え去っていき、この世に常のものはなく「無常の世界」であり、
「死んだら終わり」だからです。だから、輪廻転生も無いと考えました。すなわち、今生きている
ときの欲望から解放されれば、無の境地なると考え、そのための努力(修行)をしなければならない。
と言ったのです。しかし聖書には、「人は行いによっては誰一人義と認められない」と宣言して
います。なぜなら、人は、行いによって悟ろうとすれば、自分の罪がますます意識されるからです。
それが生まれながらの、人間の真の姿です。ですから、キリストの贖いの故に、値なしに義と
認められる恵みが、創造主によって与えられたのです。これが救いです。
B では、恵みによる救いの真理を、聖書から確認していきましょう。
6章6節には、「私たちの内の古い人は、キリストと共に十字架につけられた。」とあります。
それは、キリストが死んだとき、私たちも共に死んだという事です。即ち、キリストの死の中に
バプテスマされた私たちは、キリストと共に葬られました。だからこそ、キリストと共に甦り、
新しい命の中に生きていけるのです(3,4節)。しかし現実の私たちは、死んだこともなく
生きています。これを解く鍵はギリシャ語の時制の中にあります。6章の殆どの動詞は、
アオリスト形の過去形で表現されています。それは、現在の自分の状態の如何に関わらず、
過去に起こった出来事の事実を伝えているのです。それが、ギリシャ語のアオリスト形です。
ですから、2千年前に起こったキリストの十字架の死と甦りを自分のものとして受け留めればいい
のです。ここに救いがあります。ところが7章になると、殆どが現在形で記されています。
ここでパウロは、「自分のしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っている。」
「私は、なんという惨めな人間なのだろう。」と、現実の自分のありのままの状態を見て嘆いて
います。ところが8章になると、「キリストがあなた方の内におられるなら、体は罪の故に死んで
いても、御霊によって死ぬべき体をも生かして下さる」と言っています。6章のキリストの救いに
預かっても、古い性格の自分は、依然死ぬまで存在します。ですから、古い人が存在する以上、
罪の原理が働きます。そして、古い人に悪霊が働き、煽り立てて罪を犯させるのです。ですから、
悪魔に立ち向かって退け、肉に従って歩まず、御霊に従って歩むなら、8章にある通り決して
悪魔から罪に定められることはないのです。しかし、悪魔との戦い無くして、命の御霊の法則の
中に歩むことは出来ません。
C そこでもし、クリスチャンだといっても未信者と変わらないなら、その人は、悪霊と戦わずに
支配されたままで、古い人をそのままに生かしていることになります。もし、悪魔に勝利して
いるなら、古い人に勝利し、心を新たにして御霊によって変わっていく自分を見るのです。
この悪魔との戦い無くして、この地上では、新しくされていくことは無いからです。恵みによって
値なしに義とされた人々は、この体の贖われるキリストの日には、この古い人も脱ぎ捨てますので、
この戦いは終ります。しかし、この地上にいる限り古い人を持つ私達は、本気でこの悪魔と
戦わなければ、御霊によって歩むことは出来ません。イエス様も十字架を前にして悪魔の試みに
会いました。この地上では、人は皆悪魔に煽られます。しかし、イエス様が悪魔に勝利されました
ので、私たちも、悪魔に立ち向かうなら勝利し、御霊に従って歩めるでしょう。このロマ書の真理
の中に歩んで行きましょう。 |