『それでも神は実在するのか?』
「伝道のための8つの難題」part.W
「神の過剰な反応」への提起
罪のない子供を見殺しにする神は、崇拝に値しない。」という聖書の批評家たちは、
「エリシャに向って『上がってこい、はげ頭!、上がってこい、はげ頭!』と子供たちが
野次った時、エリシャが創造主の名によって呪うと、森の中から二頭の熊が出て来て、
42人の子供たちをかき裂いた。」(U列王記2:23〜25)とある、この聖書記事を
批評して「神は気まぐれも程が過ぎる。・・・子供の悪ふざけに、あまりにもひどい
仕返しではないか・・・42人もの罪のない子供を殺すとは!! 」と言います。
そこでガイスラー博士が答えます。「この『小さい子供たち』というのは誤訳で、
『ナアレー』という『子供』と訳されたヘブル語は、U列王記20:14を見ると
『戦いの前戦に出て行く若者たち』として訳されている。ですから、『小さい子供たち』と
訳された語は、『小さい若者たち』と訳すべきで、今日のストリート・ギャングに匹敵する
危険な暴力集団であったわけです。しかも、『42人をかき裂いた。』というのは、異常な人数
であり、『上がってこい』と挑発する子供たちは、単なる悪ふざけではないことが分ります。
これは、エリシャだけでなく神を攻撃し、エリシャの命を危険にさらせていたのです。
ですから、単なる子供だったというのは、原本の読み違えということです。
ですから彼らの態度は、神に対する反逆と挑戦的な行為への神の裁きと考えるべきです。」
又、「弱肉強食と言われる動物社会をなぜ神は創造したのか」という問題も提起されます。
しかし、これもガイスラー博士は、「動物虐待には、断固反対すべきであるが、動物にも
道徳的権利があると見るべきではないと言います。それは、もし動物に道徳的権利があると
言えば、家畜さえ食用として用いることはできないことになります。
しかし、創造主は『生きて動いているものはみな、あなたの食物である。』(創9:3)と
言われ、食べて良い動物と、食べていけない動物を区別された。(レビ11:2〜23)
ですから、私たちは、全ての主権を持つ創造主の判断に従うべきです。
被造物である人間が良し悪しを決めるとするなら、同様に、人間が作ったコンピューターに
よって人間が裁かれることになります。神が命を創ったのであれば、その神の判断に従うことが
肝要なのです」と。
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−テリエンの聖書物語より−
エリヤが火の戦車に乗って天に昇るのを、エリシャが見ている場面 |
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