@ 今朝は、キリストの花嫁は誰なのかを考えながら、創造主が黙示録を与えられた目的を
学びたいと思います。
A さて、21章には、新しい天と新しい地があり、そこに聖なる都、新しいエルサレムが、
天から下ってきたことが記されています。この聖なる都は、子羊の妻である花嫁です。
この都には創造主の幕屋があり、創造主が人と共に住まわれ、人の目から涙を
全くぬぐいとって下さるのです。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもありません。
また、水晶のように輝く命の水の川が都の大通りを流れ、川の両側にはいのちの木があり、
太陽の明かりは一切ありません。なぜなら、創造主と子羊が都の明かりだからです。
こんなすばらしい聖なる都の中に、永遠に生きる人々がおり、
また都の外にも諸国の民がおります。いずれも「いのちの書」に名が記されている者たちなのです。
では、特別に聖なる都に住むキリストの花嫁とされる人々とは、どんな人々なのでしょうか。
そのキーワードは、21章7節の「勝利を得る者」という言葉にあります。
B では、「勝利を得る者」とは誰のことでしょうか。
7つの教会には、勝利を得る者に対する報いについて記されています。
まず「エペソの教会」に対しては、はじめの愛から離れてしまったが、
悔い改めて、イエス・キリストにいのちをかけていくなら、そういう人たちは勝利者であり、
「創造主のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と。
即ち、勝利を得るなら、いのちの木の実のある聖なる都で生きることができる、という事です。
「スミルナにある教会」には、迫害によって苦しめられるが、死に至るまで忠実であるなら
いのちの冠を与える、と。そして、「第二の死によって滅ぼされることはない。」と。
第二の死とは、白き御座の審判で火の池に投げ込まれ、永遠に苦しみ続けることですから、
勝利を得る者は、そのように滅ぼされることはないという事です。
「ペルガモの教会」には、バラムの教えやニコライ宗の教えなどが入ってきているが、
毅然と立って証しした人たちは勝利した者たちであり、隠されているマナを与え、
また、新しい名が書いてある白い石を与えると。
「テアテラの教会」には、信仰の精神を最後まで貫き通しなさい(2章25)と。
そうすれば、諸国民を支配する権威を授けると。
「サルデスの教会」は、生きているが実は死んでいる教会でした。行いに頼っていたからです。
しかし、信仰に基づく行いこそ勝利です。彼らは白い衣を着て、キリストと共に歩み、
御座のそばにいるのです。
「フィラデルフィヤの教会」は、少ししか力がなかったにもかかわらず、主の言葉を守り、
主の名を否まなかったから、あなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいたと。
そして、勝利を得る者を、聖所における柱とし、新しいエルサレムの名と、
主の新しい名とを書き付けると。
「ラオデキヤの教会」は、生ぬるく、クリスチャンといいながら、キリスト一筋の心を
持っていないし、本気で生きていこうとしていないから吐き出そう、と。
だから熱心に悔い改めよと。勝利を得る者には、主と共に主の座に着かせようと。
これらのことから、創造主が黙示録を与えられたのは、聖なる都に入る花嫁として、
お前たちを迎えたいのだ、という私たちへのラブレターなのです。
C 皆さん、この聖なる都に入れられるキリストの花嫁は、誰でも入れるわけではありません。
キリストの贖いによって命の書に名が記された者の中で、勝利した者だけです。
その他の者は、新しい天と新しい地にいる諸国の民として都に入ることは許されていますが、
花嫁として、御座の周りにある幕屋に住めるわけではありません。
ですから、クリスチャンとして、熱くもなく、冷たくもない信仰ではいけないのです。
黙示録は、クリスチャン一人一人に残りの人生を、「主を仰いで生きていく信仰の勝利者に
なりなさい。」と勧められた書なのです。ですから、主のために、命をかけた献身の生涯を
全うしていきましょう。 |