@ 今朝は、自発的な信仰(主を仰ぐ心)について学びたいと思います。
A さて、私たちは今日から、神を創造主(つくりぬし)と訳した口語訳聖書で
学び始めました。読み始めてみると、創造主は絶対主であるという印象が素直に心の中に
入ってきます。
すると、私たちの信じるお方が、創造主であり、全能者であり、天地万物の権威者であり、
オールマイティなお方であることが分って嬉しくなります。
この創造主が、先ず黙示をキリストに与え、キリストが御使いによって、ヨハネに与えました。
即ち、創造主は、権威を持っておられるトップの方なのです。
だから、私たちは、いつもこの方を仰いで行けばいいのだと平安になります。
B では、ピレモン書を通して具体的に主を仰ぐ信仰とは、どういうことか見て行きたいと
思います。この書は、パウロがクリスチャンであり、同労者であるピレモンに、
オネシモについて書いた手紙です。このオネシモは、パウロがローマの獄中で生んだ子でした。
ところが、このオネシモは、元々ピレモンの奴隷でした。しかし、オネシモはピレモンから
逃げ出してローマに行き、そこでパウロと出会って回心したのです。
そしてその時から、オネシモは、パウロに良く仕えて役立つ者となっていました。
しかしパウロは、彼がピレモンの許から逃げてきた奴隷であることを知り、主人である
ピレモンの所に返そうとしたのです。本来ならパウロは、ピレモンを導いた恩人として、
堂々とピレモンから受けとって、自分に仕える者として手元に置いておくことも出来ました。
しかし、それは、強制されてするのではなく、自発的なものであって欲しいと願ったのです。
一般的な人間は、いつも自分の損得を考え、自分の都合のいいことを考えます。
もちろん、パウロにとってもオネシモは、手放したくない存在でした。
しかしパウロは、人間的な計算高さで行動する人ではありませんでした。
彼は、いつもイエス・キリストを通して全能主からの判断を考える人でした。
もし自分の計算で事を始めるなら、最後まで自分の力で解決しなければなりません。
しかし、全能主に頼るなら、全能主が責任を取り解決してくださるのです。
ですから、パウロは、全能主がピレモンにどのように働き導いてくださるのかを
委ねたのです。またピレモン自身が、強制されてではなく、自発的に信仰を働かせて
決断していく事を願ったのです。この自発的な信仰を主は願っておられるからです。
C 「寄らば大樹の陰」という言葉があります。この考えは、「力を持っている人に寄り
添って、自分を守って行きたい」という心を表現しています。
しかし、いつも人に依存して生きていたら、その人がいなくなったら生きていけません。
多くのクリスチャンは、何か問題が起こると、すぐに牧師に頼り、牧師からの慰めをもとめて、
あたかも問題の解決をしたかのように錯覚しがちです。しかし、牧師は、その様な人に自立した
信仰を引き出そうとして、あえて突っぱねもします。もしその人に信仰があるなら、
「直接イエス様に頼り、問題を解決できる。」はずですから。私たちは人に頼るのではなく、
直接創造主に結びつくことが大切です。そうすれば、信仰は自発的なものとなって
いくでしょう。
すると、人間的な判断は、影を潜めていきます。パウロさんは、その信仰姿勢をピレモンに
分かってもらいたかったのです。私達もまっすぐに主を仰ぎ、自発的な信仰に立って
従って行きましょう。 |