ショートメッセージ
  
  
教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室
2010年 NO.328



                         
                           
『イエスが神であり、人であった真理について



当時のユダヤ人は、三位一体など知りませんでした。彼らは、旧約聖書に出てくるヤハウェなる

神しか知らなかったのです。ですから、自分は「神の子である」と宣言されたイエス様を、

神を冒涜するものとして十字架につけて殺しました。しかし、イザヤ書53:12には、

「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」とありました。

すなわち、神は御子を殺すことによって、この世を救おうとされたのです。

だから、時至って、神の御子は「神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは

考えず、・・・人間と同じようになり、人としての性質をもって現れ・・・実に十字架の死にまで

従われました。」とあります。

神は死ぬことは出来ません。死ぬことの出来ないお方がどのように死ぬのでしょう。

それは、神が、私たちと同じ人間となることで、人間の死をご自分が引き受けて下さる方法しか

ありませんでした。
しかし、イエス様が十字架にかけられて死んだとき、神が死んだわけでは

ありません。罪深い人間の肉(ロマ8:3)を取って下さったイエス様が、私たちの身代りと

なって死なれたのです。もともと、神が人間となられたということは、有限な人間の頭(知識)で

理解できるものではありません。神は、人間の知性の中では、矛盾のあることをされました。

しかし、神の御子が、マタイ10:45で「自分の命を与えるために来た。」という

罪の身代りは、「人に出来ないことでも、神はできるのです。」又、「人には分らないことを、

神はなされるのです。」

だから、私たちは、神と人間という二面性を持ってこられたイエス様を、そのまま信じるのです。






                           

    
 



     
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室