今日の科学者(生命の起源を専門とする)は、偶然や自然淘汰という意見に愛想を尽かしています。
というのは、科学者は、実験によって繰り返し証明される事柄に基づいて、新しい現象を
論理的に説明しようとしています。ですから、目に見えない事柄は、実験の対称にならず、
神の領域を科学に持ち込むのを嫌います。
科学者は、探求する全てのことを、目に見える実験で証明し、論理づけようとするのです。
例えば、塩の結晶は、ナトリウムイオンと塩化物イオンが互いに引きつけ合う化学的な力によって
異なる元素が結合することを証明しました。同じように、生命の起源を研究する科学者は、
DNAの並びが、化学的な力によって結合していることを証明しようとしたのです。

しかしながら、DNAは、二つの元素が繰り返し引き合っているのではなく、4つの塩基の内、
3つの組み合わせによって、64通りの組み合わせを作り、その1つ1つに意味を持たせ、
繰り返しの並び順ではなく不規則に並ばせています。
しかも、不規則ながら、あらかじめ決められた並び順に従って、それぞれが意味するところを
決めています。それは、英語のアルファベット26文字によって1つの意味ある単語を
決めているのと同じです。
従って、あらかじめ意味のある並び方を定めた知性が存在しないと、DNAは単なる塩基の鎖に
なってしまいます。すると、その意味を持たせた知性とは、何でしょう。
知性とは精神的機能のことで、精神とは、心とか魂のことです。
すると、生命の起源には、目に見えない領域に科学者はぶつかるのです。
科学者にとって目に見えない領域は科学できません。だから、偶然とか自然淘汰という知性のない
世界に生命の起源を探求することに、愛想を尽かしたのです。
まさに「この世界が神のことばで造られたことを悟り、・・・目に見えるものが、
目に見えないものによって生まれたことを悟る。」(ヘブル11:3)のです。
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