『全ての供給源は主』
ヨハネ6章52〜66節
@ 今朝は、御言に聞いて、「御言に従っていく教会」であるように、という願いを持って
学びたいと思います。
A さて、イエス様は、2匹の魚と五つのパンで5千人を満腹させられました。
その人数は、女や子どもを加えたなら、実質2万人にはなったでしょう。
人々は、「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言って、その翌日も、イエス様を探して
やって来たのです。ところがイエス様は彼らに言われました。「なくなる食物のためではなく、
いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」と。
そこで、「神のわざを行うために何をすべきか。」と言う彼らに言われました。
「あなたがたが、神が遣わしたものを信じること、それが神のわざです。」と。ここまでは普通に
聞くことが出来ました。ところが、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。
このパンを食べる者は永遠に生きます。」と、“信仰の生”を、そのまんま提供すると、
「ひどいことばだ。聞いておれん。」と言って、多くの者が去って行ったのです。
イエス様のことばをそのまま受け入れることが出来なかったからです。
B では、「イエス様のことばに、どこまでもへり下って聞き、信頼して生きていくこと」について
考えてみましょう。イエス様は言われました。「神から出た者は神のことばに聞き従うが、
聞き従わないのは、神から出た者ではないからです」。さらに、「あなた方の父は悪魔だ。」と。
多くのクリスチャンたちは、霊的な生き方―(どこまでも100%信頼していく生き方)―を具体的に
求められると、「そこまで求められたらやっていけない。できない。・・・」と尻込みします。
「霞を食べて生きてはいけないし、そんな生き方は真似出来ない。」と考えるからです。
その考え方は未信者の一般の人々と同じです。彼らは、「自分が働いて、自分でお金を
かせいでいる。」と考えており、お金が頼りで、お金を貯めることに腐心しています。
しかし、クリスチャンでも同じです。お金が無くなったら困ると考えて、出来る限りお金を
プールしておこうとし、必要なことにも出し渋るのです。しかも、それが賢いやり方だと思って
います。しかしそれは、神の御心から遠く離れた生き方です。
なぜなら、神の御心は、「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えて、衣食はすべて与えられる。」と言われました。私たちの生活は、イエス様の目が行き
届く中で守られているのです。ですから、私たちがどこまでも信頼して従って行くなら、
神は私たちが考えていない方法で備えてくださるのです。私たちの必要は、私たちの背後にある
イエス様が供給源だからです。ですから、背後にある供給源を信じていく意識を持って行けば
いいのです。そうすれば、必要なことにはケチらずに大胆に使っていけますし、必要を覚えている
教会があれば、躊躇せずに持ち出して助けて行くことも出来るのです。全ての供給源は主であり、
必要を下さるという信仰を実生活に生かしていく生き方をしていくことが、イエス様のことばに
信頼して生きることなのです。
C もし、世の感覚や考え方を捨てきれないで、世の生き方を続けていきたいと思っている者は、
イエス様から離れていきます。今、丸ごと信じる信仰があるかどうか、一人一人が問いかけられて
いるのです。徹底的に背後にある供給源である主に信頼していく純粋な信仰を貫いていく
教会であり、又個人の生き方にして行こうではありませんか。 |
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