| 『固定概念を捨てて、信頼する』 
 
 
 
 
 
 マルコ11章12〜15、20〜25節 
 
 
 
        
          
                        | @ 今朝は、私たちが、「固定概念」に縛られずに信仰を働かせていく事について、 
 学びたいと思います。
 
 A さて、ベタニヤからエルサレムへ向かう途中で、イエス様は空腹を覚えられ、イチジクの木に、
 
 何かありはしないかと期待されたのですが、葉っぱだけで実はありませんでした。実のなる季節では
 
 なかったからです。そこで、イエス様は、その木に向かって言われたのです。「今後、いつまでも、
 
 だれもおまえの実を食べることのないように。」と言って、その木を呪われました。そして翌日、
 
 そのイチジクの木は根まで枯れていました。これを見た弟子たちに、イエス様は言われたのです。
 
 「神を信じなさい。心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、その通りになり
 
 ます。」と。この理不尽と思える出来事を、私たちは、どのように理解したらいいのでしょうか?
 
 B では、イエス様の真意について考えてみましょう。ペテロは、「イチジクの木が、イエス様に
 
 呪われたので枯れてしまった。」と言いました。確かにそうですが、注意しなければならないことは、
 
 私たちと同じ罪の意識から身勝手に呪った、と受け取るべきではないということです。と言うのは、
 
 25節で主は、「祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。」と言われ
 
 ているからです。つまり、イエス様は身勝手な恨み事で枯らしたのではなく、聖なる御心を持って
 
 おられたと言うことです。それは、どんな御心だったのでしょうか。
 
 私たちは、いちじくの実がなるのは夏だから実がないのは当然であって、この時期に実を求めるのは
 
 無理なことだと考えます。しかし、思い出してください。水が一瞬にしてブドウ酒になったことも
 
 あり、また、湖の上を歩いて渡られたり、五つのパンと二匹の魚で5千人を満腹させたりと、
 
 主はあり得ないことを数多くされてきました。それらについては目くじらを立てないのに、
 
 いちじくの木については目くじらを立てるのは何故でしょうか。
 
 それは私たちが固定概念(実のならない時期に実はつかない)にとらわれているからです。
 
 イエス様は弟子たちに言われました。「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と
 
 言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。」
 
 と。ところが私たちは、「山が動いて海に入るなんて」、私たちが言っても絶対ならない、と決めて
 
 かかっています。この頑固な固定概念を捨てなさい、と主は言われているのです。この信仰を妨げて
 
 いる固定概念を捨てて、初めてイエス様の言われたおことばを受け入れることが出来、「信じよう」と
 
 心が変わってくるのです。私たちには様々な固定概念があり、それらに縛られて信仰を働かせるこ
 
 とが出来なくなっています。いちじくの木を通してイエス様は、このことを教えたかったのです。
 
 C イエス様は言われました。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
 
 そうすれば、そのとおりになります。」。全知全能の創り主で在られる主は、ご自分の創られた
 
 法則をも超越して事を行える方です。ですから私たちは、固定概念を捨てて、この方に信頼すれば、
 
 祈ったことはすでに得たと信じて良いのだと分かります。もし、ダメだと決めつけて信じなければ、
 
 いちじくの木のように役立たずとなってしまいます。「主がしてくださる」と、信仰を働かせて前向き
 
 にイメージしていくなら、主は喜んでくださり、私たちのために、法則さえも変えて事を成就して
 
 くださいます。どこまでも固定概念に縛られず、主を信頼する勇気を持っていきましょう。
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