『新天新地にある聖なる都エルサレム』
ヨハネ黙示録21章22〜22章5節
@ 今朝は、新天新地にある聖なる都エルサレムについて考えながら、そこに入れる人たちはどういう
人々なのかを学びたいと思います。
A さて、白き御座の審判の後に、以前の天と地は過ぎ去り、もはや、海もなくなって、新しい天と
新しい地が出現します。そこに、聖なる都新しいエルサレムが下ってきます。
そこには、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。神が共に住み、人々はその民となる
からです。神は言われます。
「事は成就した。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」と。
また、聖なる都には御座があり、父と小羊がおり、いのちの川が流れ、神のしもべたちは皆、神に仕え
ているのです。この聖なる都そのものが小羊の妻なのです。彼らは、14万4千人だけではなく、
私たちクリスチャンも入って、そこで永遠に生きていける可能性があるのです。「勝利を得る者は、
これらのものを相続する。」と言われているからです。
B では、「勝利を得る者」とはどういう人々なのか考えてみましょう。
2章と3章には、七つの教会について記されています。それぞれに問題があり戦いがありました。
ですから最後に、「勝利を得る者には・・・」と、それぞれの教会に語られています。
エペソの教会には、
「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と。
フィラデルフィヤの教会には、
「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、
わたしの神の都、新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。」と。
ラオデキヤの教会には、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。」と。
主に信頼していく信仰を生涯貫いていくなら勝利を得る者となるのです。しかし、自分の肉の感情を
大事にして、不信仰になっていては、勝利者とはなれません。だから、私たちは死に至るまで信仰の
筋を通していくのです。信仰の筋を通すとは、「家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てる」という場合も
起こってくることがありましょう。しかし、筋を通すなら、主は、私たちの肉の家族のことも考え、
顧みてくださる方です。何故なら主は、最後の審判の時、「私の兄弟たち、しかも最も小さい者たち
のひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と言われ、私たちを助けてくれた肉親や友人たちを
永遠のいのちに入れてくださると約束しておられるからです。彼らは、おそらく諸国の民として、
信仰の有無に関わらず、永遠のいのち(新天新地)に入るのです。
ここに主が、一辺倒ではない聖なる御心をお持ちの方であることが分かります。
ですから私たちは、「主よ、私の霊を御手に委ねます。」と信仰一筋で生きて行っていいのです。
C 7つの教会に対して、信仰の勝利を得る者は、新天新地に入ることができるということが言及され
ていますので、私たちクリスチャンも入ることが出来るということです。
しかも、エペソの教会、フィラデルフィヤの教会、ラオデキアの教会においては、
聖なる都エルサレムを示していますから、私たちも、新天新地の中のキリストの花嫁としての聖なる
都エルサレムに入れる可能性があるということです。そのためには、勝利を得なければなりません。
ですから、生涯、信仰の筋を通して、主を第一として、勝利を得る者の中に加えて頂きましょう。
この望みは、なんとすばらしいクリスチャンの特権でしょうか。
ですから、まず神の国と神の義を第一にして歩んで行こうではありませんか! |
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