@ 今朝は、信仰のレベルアップについて、大事なポイントを考えたいと思います。 
                   
                  A さて、聖霊の導きによって、福音伝道がアジヤからヨーロッパへと拡大されていくことと 
                   
                  なりました。その最初の町のピリピで、パウロは、祈り場があると思われる川岸に行き、 
                   
                  そこに集まっていた女たちに話したのです。そこにルデヤという女が聞いていました。 
                   
                  主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされたのです。たとい福音が明確に 
                   
                  論じられても、人の心が動くわけではありません。主の働きがあって初めて人の心が開かれ、 
                   
                  語られた言葉が心に留まるのです。この時、信じたのはルデヤ一人でした。 
                   
                  しかし、このひとりの人から、ルデヤの家族と次の福音宣教へと繋がっていくのです。 
                   
                  B では、ピリピでの福音宣教について見てみましょう。 
                   
                  パウロたちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会いました。 
                   
                  彼女はパウロたちの後について行き、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道を 
                   
                  宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けました。一生懸命宣伝しているかのように 
                   
                  見えますが、そうではありません。ルデヤのように心を開いて宣伝しているのではなく、 
                   
                  悪霊が女に働いて、パウロの邪魔をしているのです。ですから、パウロは困り果てました。 
                   
                  そこで、その霊に「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じたの 
                   
                  です。すると即座に、霊は出ていきました。ところがこのことから問題が起こってきました。 
                   
                  その女奴隷の主人たちは、儲ける金づるが無くなったので、パウロとシラスを捕らえて訴えたの 
                   
                  です。そのため二人は、むち打たれてから牢に入れられてしまいました。これで福音宣教は 
                   
                  暗礁に乗り上げたかに見えました。しかし主は、次の展開を用意しておられたのです。 
                   
                  真夜中頃、突然大地震が起こり、扉が全部開いて、みなの鎖が解けてしまったのです。牢の扉が 
                   
                  全部開いているのを見た看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺しようとしました。 
                   
                  そこでパウロは大声で叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と。 
                   
                  看守は仰天しました。しるしと不思議を目の当たりにしたからです。 
                   
                  そこで、直感で「救われるためには、何をしなければなりませんか。」即座に言ったのです。 
                   
                  ところがその答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も 
                   
                  救われます。」でした。「何々をしなさい」ではなく、「信じなさい」というのが 
                   
                  ここのポイントです。信じるだけ・・・というこの図式を、私たちはなかなか理解できません。 
                   
                  ですから、主によって心が開かれていないと、ここでストップしてしまいます。 
                   
                  これが心の壁です。この壁を乗り越えるには祈りが必要なのです。 
                   
                  この心の壁は、クリスチャンになってからも、まだ私たちの心にあります。 
                   
                  例えば、クリスチャンが自分の罪に対して、自分で何とかしようと思ってもできません。 
                   
                  自分の行いや努力で解決できるものではないからです。ですから、信じるだけです。 
                   
                  信じれば解決できるのです。それは、言われたことを、心を開いてそのまま聞いて、 
                   
                  悔い改めていくことです。この看守と家族は、主のことばをそのまま信じて悔い改めました。 
                   
                  そして、信じたことによって救いを経験し、喜んだのです。それと同じように、私たちは、 
                   
                  「何をしなければなりませんか」ではなく、「ただ信じなさい」と言われているのです。 
                   
                  しかし、律法主義的な私たちは、信じてからでも行いを求めて、ただ信じることが分らず、 
                   
                  心の壁を持っているのです。 
                   
                  C 私たちは、信仰を極めたいと願っています。そのためには、「何をしたらいいですか?」 
                   
                  ではなく、心を開いてただ主を信頼していくのです。すなわち、主の言葉に信頼して、 
                   
                  信じることです。この信じるだけでいいのか? と思うところに、心の壁があるのです。 
                   
                  神は心を見られる方です。神は心の壁を砕いて、心を開いて来る人たちを愛し、包み、生かして 
                   
                  くださるのです。私たちが、自分の心にある壁を崩し、反発の心を捨てて、そのとおり聞いて 
                   
                  いくなら、空を打つ戦いとはなりません。ですから、「自分の心の壁を砕いてください。」と 
                   
                  祈っていきましょう。ここから、信仰のレベルアップが起こってくるのです。 |