マタイ5章27〜48節
@ 今朝は、「律法主義的福音」と、「恵みによる福音」の違いを見ながら、本来の福音の示す
ところを考えて行きたいと思います。
A さて、多くのクリスチャンは、主を信じてから聖書のマタイ伝から読み始めます。
すると、すぐに山頂の垂訓に出くわし、道徳律の高い基準にビックリしてしまいます。
それまでは、人間はわがままで、弱さを持っているものだから、「しょうがない」と思っていた
ことが、神の前に罪だと知らされます。しかし、クリスチャンになった以上イエス様の言われる
ことは正しいのだから、そのまま行っていくべきだと思い、やって行こうとします。ところが、
現実はとてもその通りできない自分に失望するのです。それは、この山上の垂訓が、先祖達が
負いきれなかった律法より、さらに高い律法だからです。
では、イエス様が語られた律法にどう対処していけばいいのでしょうか?
B まず、イエス様の語られた真意を見てみましょう。イエス様は言われます。「だれでも情欲
をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と。これは、口に出さなくて
も、心の中の思いだけで罪になるということです。また、誰も見ていないところでやった
としても、神の目にはすべて知られているということです。これだけで、もうお手上げです。
イエス様が語られた戒めを全部そのまま守れる人は一人もいません。それはイエス様御自身が
良く分かっておられました。それでいてあえて語られ、私達の心をえぐられているのは、私たち
人間が罪を犯して神から離れたアダムとエバの子孫であり、自分ではどうにもならない、実に
原罪の中にある罪人であることを自覚させるためでした。さらにそれは、神の義を表すためでも
ありました。ところが律法主義の人々は、戒めを守ろうと努力しますが、出来ない自分に
自虐的になり、最後には、「しょうがない」というクリシミチャンになります。
一方、キリストの恵みを重視する人々は、日常生活の中で自分の罪を知らされると、恵みで
救われているんだから・・・と罪を軽視し、「しょうがないや」と、これもまた放縦な
クリスチャンになります。しかし、どちらも見逃している真理があります。それは、私達人間は
だれでも、「原罪」を持っているという事実です。だから、どんなに努力しても原罪を無くす
ことは出来ません。たといどんなに罪滅ぼしをしたとしても、犯した罪が消えるわけではあり
ません。かと言って、恵みだからと言って罪を放縦にしていいわけではありません。
イエス・キリストはこの事をご存じでした。
ですから、人の原罪を消すためではなく、贖うために来られたのです。故に、キリストの贖いを
受け入れた者は、価なしに義と認められます。(ロマ3章24節)。ですから、私たちは、
キリストの前にへりくだるだけです。律法主義も恵み主義も、罪を消すことは出来ません。
死ぬまで原罪を持った者として、自分が罪人であることを認め、ただへりくだるべきなのです。
これこそがイエス様が戒めを語られた真意なのです。
C 私達は、自分が原罪の中にあるどうしようもない罪人であることを認めたなら、本気で、
「主の前にへりくだり、ただ聞いて従っていきます。」砕かれた心を持つべきです。
原罪を持っている私達がへりくだるのは当然のことだからです。へりくだることは敗北では
なく、勝利です。ここに立って、「しょうがない信仰」から、へりくだって積極的に主に従って
いく福音を伝えていきましょう。 |
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