@ 今朝は、クリスチャンの、地上での生き方について学びたいと思います。
A さて、この手紙は、パウロがローマの獄中で書いたものですが、当時すでに、いろいろな
問題が教会に入ってきて、純粋な信仰から離れていくものが起こり始めていました。その結果、
人々の信仰が歪んでしまい、本体であるキリストからずれていってしまう恐れがありました。
ですから、ダマシごとの哲学の虜とならないように、パウロは信仰の原点に立ち返るように教える
必要があったのです。
B では、信仰の原点について考えてみましょう。私たちもクリスチャンとなってから、信仰の
在り方についていろいろ悩み、試行錯誤しながら歩んできました。そしてたどり着いたのが、
「やはり原点に戻ればいいのだ。」ということでした。これまで私たちは、何か一つ足りないもの
を感じ、浮き沈みしない安定した信仰の在り方を願い、様々な面から追求してきました。それは
カリスマ的なものを始め、創造論という知識的なものに至るまで様々でした。さらに、聖書には
真理の二面性があり、この二面性を無視しては聖書を正しく理解することは出来ないことも
分かってきました。このような中で私たちは、「神は、世の知識を愚かとし、宣教のことばの
愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた。」という信仰の原点に立ち返ったのです。
ですから、「キリストの十字架こそが大胆に語られるべきものだ。」、と確信するに至りました。
パウロも又語っています。キリストから離れたら救いはありません。実に反キリストが現れて、
キリストを否定し、キリストから離れさせようとするのは、昔も今も変わりません。
この世の中には偽物やダマシごとが溢れているからです。これらを正しく判断していくためには、
自分のこだわりを放棄して、神から見た見方をしていけばいいのです。確かに私たちには自由意志が
与えられています。ですから、自分で決める主権を持っているのは確かです。しかし、「自分の
自由意志100%を使って、神の主権を100%認め、聞き従って行く。」と、決めるその
へりくだった心こそ価値があるのです。パウロは言います。「あなたがたの命は、キリストと共に、
神のうちに隠されています。」と。「あなた方はキリストとともに死に、キリストにあって生きた
者ですから、彼に在って生きなさい。」と。ならば、この地上で古い人を脱ぎ捨て、神のために、
自分のいのちを使い尽くしていけばいいのです。と。これが、この地上での残りの生き方であり、
神のために、いのちを使い尽くす生き方です。これが、私たちの信仰の原点なのです。
C 宣教は、御霊と御力の表れですから、御霊の働きが必要です。また、聖書は誤りのない神の
ことばであることを確信するためには、創造論の学びが必要です。これは、福音宣教の両輪です。
それによって、創世記1章から、黙示録に至るまでそのまま信じて良いという確信が与えられる
からです。さらに、十字架の言葉は信じる者には、すばらしい神の力ですから、ここに立って、
福音を語っていけばいいのです。この心を持って、一致した心で大胆に証ししていきましょう。
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