@ 今朝は、復活について考えながら、この地上において、どのような心で生きていくべきかを
学びたいと思います。
A さて、コリントの教会は、様々な問題点のある教会です。
しかしパウロは、そんな中にあっても、一生懸命励ましながら、如何に主に心を向け、主のために
生きていくべきかを語っています。その内容は非常に前向きです。そしてこの15章では、この
地上において、どんな心で生きていくべきかを、キリストの復活について検証しながら語っている
のです。
B では、15章の後半の部分から学んでみましょう。人々の中には、死んだ者の復活はない、と
考える人々がいました。特に、指導者の一派であるサドカイ人たちはそのように考え、地上だけの
救いに心を向けていました。そこでパウロは言います。「もしキリストがよみがえらなかった
のなら、私たちの信仰はむなしく、キリストが罪の償いをしてくださった根拠も明らかにならず、
今もなお、自分の罪の中にいることになる。」と。さらに、「死んだ人がどのようにして甦る
のか。」という疑問に対しては、パウロは、地に蒔かれる種を例にとって語ります。蒔かれた種が
死んで全く新しい芽が出てくるように、死者の復活もこれと同じです、と。
「朽ちるもので蒔かれた体が、朽ちない体によみがえらされ、血肉で蒔かれた体が、御霊に属する
体によみがえらされるのです。」私たちはアダムとエバの子孫であり、その罪の性質を持ち、土で
造られた朽ちる者として生まれてきました。ですから、私たちの体は、いくら自慢しても始まり
ません。朽ちていく肉をかばっても、またむなしいものであり、自分の失敗を弁解しても仕方が
ないことです。だから、自分の肉を否定されたら、「その通りです。」と、100%受け止め、
謝っていくだけです。私たちの肉は弱く、情けないものだからです。しかし、甦るときは、朽ち
ない体に、また強い者として甦るのです。即ち、血肉の体を脱ぎ捨て、御霊のからだである天上の
からだを持つのです。その時、「死は勝利にのまれ、アダムの呪いから完全に解放された永遠の
命を持つのです。」そこに、私たちの生きる望みがあり、生きていく力があるのです。死者の
復活があるなら、獣と戦っても益があります。死の中に沈められるような迫害に遭遇し、いつも
危険にさらされ、毎日が死の連続であるような生き方であっても、復活があるから益なのです。
ですから、私たちの労苦は無駄ではなく、この地上で一生懸命主の業に励みたいのです。神の御子
がいのち引き替えにして、アダム以来の罪の呪いを全部終わりにしてくださいました。故に、主の
業に励み、労苦を天に積んでいく生き方をしていくのです。これが、天に宝を積む生き方です。
C 「血肉の体は神の国を相続できません。」ですから、もし、自分の肉の満足のために努力し、
栄光を手にしたとしても、それらはみな地に置いていかねばなりません。しかし私たちは、栄光の
冠を目差して主のために走り尽くす生き方をするのです。そして、火の試みあっても、焼けない
信仰の建物を造りあげて行きたいのです。それは、二心ではやっていけません。砕かれた悔いし
心で、主に心を全て向けて生きていこうではありませんか。 |