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2009年7月12日







『聖なる者とされた』


                 




Tコリント3章1〜17節





                   
@ 今朝は、聖なる者とされたクリスチャンの生き方について学びたいと思います。

A さて、パウロは、コリントのクリスチャンたちに呼びかけています。「聖徒として召され、

キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」と。これは私たちにも当てはまること

です。何と感謝な事でしょうか。ところが、主によって聖なる者とされた人々が、「ただの人の

ように歩んでいる。」とも指摘されているのです。それは、聖なる者とされたからといって、

自動的に聖い生き方が出来るということではない、ということです。確かに現実は、信じてからも

罪を犯して悩む自分があります。実に、この肉には全く価値がなく、地のチリ、カスに過ぎません。

こんな私たちですが、キリストの故に、聖なる者、御国を相続する者とされており、栄光の体に

変えられて天に引き上げられる者とされたのです。


B では、聖なる者とされた私たちは、地上でどのように歩んでいけばよいのでしょうか。

私たちが聖なる者とされたのは、イエス・キリストが命を丸ごとかけて私たちの罪の贖いをして

くださったからです。このキリストを信じ受け入れたとき、神は私たちに、御子の御霊を遣わして

下さいました。そのことによって、私たちの心にはキリストの霊が入っているのです。それは、

「キリストの心」が私たちの内にあるということです(2章16節)。ですから、イエス様の

ことや霊的なことや御国の世界のことが分かって嬉しくなるのです。

ところが一方で、「あなたがたは、まだ肉に属している。ただの人のように歩んでいる。」と

言われています。それは、「自分のわがままで勝手な考えに立って判断する」からです。また、

キリストの心が分かっていたとしても、「自分を守れないと、反発したり、反抗したりする」の

です。これは、私たちの中にもあることです。本来ならば、遜りキリストの考えに立って従って

いく者となっていくべきなのですが、我がそれを妨げているのです。自分の思い通りにしたい

という我を砕いて初めて、神の考えに従って行くことが出来るのです。神の前に成長していく

秘訣は、肉の感情は反発しても、その我を砕いて従っていくことです。それが、キリストの心を

自分の心とすることだからです。こうして、キリストの心を土台としていくところに価値がある

のです。しかし、肉と霊がごちゃ混ぜになっているクリスチャンは、成長出来ないばかりか、

どういう建物を建てていけばいいのかさえも分からずに迷ってしまいます。その結果、「背に腹は

代えられない」と、キリストに頼らないこの世の常識に合った建物を建ててしまうのです。

それでは、火の試練が来たとき、キリストという土台の故に自分は火の中をくぐるようにして

助かったとしても、建物は焼けてしまい、その働きの実は残りません。ですから、すべての事を、

キリストにあって判断し生きていかなければ、全てが無になってしまうのです。私たちには、霊と

魂と体があります。この霊を、キリストの霊の影響を受けて、魂と体にも影響を与えていくなら、

生きるのです。ですから、そういう生き方をしていくことによって、火によっても焼かれない

建物を建てることができるのです。

C 
これまで私たちが学んできたことは、「砕かれた悔いた心」です。ですから、聖なる者と

されたクリスチャンは、まず神を第一にして歩んでいけば、神は全てを成し遂げてくださるの

です。「主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。」―この御言に対する確信と信仰に立って、

このいのちを使い尽くしていきましょう。

    


                                        

  
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