『律法とは』
ガラテヤ3章19〜29節
@ 今日は、「律法とは何でしょう。」という問いかけから学んでいきたいと思います。
A さて、私たちの社会には、互いに幸せに暮らしていくための守るべきルールがあります。
それは、人と人の関係に関する法律です。もし、この法律がなければ、やりたい放題になり、
強い者勝ちになります。そして、裁きというものが成り立たなくなります。また聖書にも、神と
人間に関する戒めがあります。それは、律法といいます。例えば「歯には歯を。目には目を。」
というルールがありますが、その意図は、「それ以上の過剰な報復をしてはいけない。」ということ
です。ですから、このルールがあることによって、やりたい放題にやり返すという過剰な報復から
守られ、また、強い者勝ちとなることを戒めているのです。この聖書の、律法は、人と人の間に
あるものではなく、神と人との間にある、絶対的な戒めですから、見つからなければいいという
ものではありません。これを破れば、単なる刑罰を受けるだけでなく、神からのろわれ、滅ぼされる
のです。
B では、神は何故律法を与えられたのでしょうか。この律法と一体になっているのは、
裁き(罰)です。もし罰がなかったなら、戒め(律法)は死んだものです。例えば、今日の学校を
見るならそれが良く分かります。「教師は、体罰を与えてはいけない。」となってから、小中学校
では学級崩壊が起こってきています。子供にとって、罰の無い注意は、怖くないからです。
これは、罰がないために戒めが死んでいる状態であり、自分が悪いことをしているという自覚が
麻痺していくのです。これでは、自分が悪いことをする人間であり、罪人であるという意識がなく
なり、裁きの怖さも、救いの必要も分からなくなってしまいます。しかし神が私たちに与えられた
律法は、もし、それを守ることが出来なければ、無条件で裁かれて燃えさかる火の池に投げ込まれる
のです。何故なら、私たちの行ったこと、心に思ったことは、全て神様にお見通しであり、
記録されており、一つ一つが明らかにされて裁かれるからです。裁く方は、イエス・キリストです
(ヨハネ黙1章13〜18節)。ですから、神の律法を破れば、必ず罰があります。
ところが、私たちは、神の律法を守ろうとすればするほど、かえって守ることが出来ない罪人である
ことが分かってきます。残念ながら、律法を守ろうとして、私たちは、律法によって罪の下に閉じ
こめられてしまうのです。それは、罪だと分かっていないことを、罪だと分からせるためであり、
生まれながらに罪の原罪があることを自覚させるためでした。自分が罪人であり、裁かれて地獄に
行くものだと分かれば、キリストの救いの必要も分かってきます。こうして、律法は、キリストへ
導くための養育係となったのです。戒めは罰が在ってこそ生きてきます。神を侮ることは
出来ません。ですから、今の内にキリストの救いを受けるべきです。
C イエス・キリストは、私達の為に罪の贖いをしてくださいました。ですから、この方の愛を
無視して、悔い改めないなら、そこに赦しはありません。実に恐ろしいことです。いくら努力しても、
全ては根こそぎになってしまうのです。私たちは、イエス様が命を丸ごと捨ててくださいました。
ですから、私たちもこの方に命丸ごとささげてこそ価値があります。この救いを受け取りましょう。 |
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