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2009年12月20日





神の国に入る





第Uテサロニケ1章3〜10節




  

@ 今朝は、「神の国」をテーマにして考えたいと思います。

A さて、私たちは、神の恵みによって救いを与えられています。これはありがたいことで、

感謝な事です。本来なら、救われるためには、自分が努力して愚かな部分をそぎ落として

いかなければなりません。しかし私たちは、気持ちはあっても行いがついて行かない者で、

正しく完全な生き方はできません。その上、自分の力では救いの確信を持つ事さえ出来ません。

なぜなら、何処までやれば完全だと言われるのか分からないからです。

ところが、人間の行いでる救いを得るのではなく、
「信仰によって義とされる」という神の救いが

あるのです。
「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義とされた。」とあります。

この神の約束は、神が決して破ることがないということを、神御自身が引き裂かれた動物の間を通る

ことによって証しされました。(創世記15章)。ところが、人間の方が破ってしまったので、

神の御子が十字架にかかってご自分の肉を引き裂くことによって、罪の贖いと神の国に入る約束を

実現してくださったのです。
故に、私たちには神の国に入る希望があるのです。

B では、神の国について考えてみましょう。パウロはテサロニケのクリスチャンたちに

語っています。「あなたがたが全ての迫害と患難とに耐えながら、従順と信仰を保っています。

それが、あなたがたにとって、
神の国に相応しい者とされるためです。」と。私たちは、救いを

得ると悩むことのない、ユートピアのような世界を期待しますが、決してそうではありません。

テサロニケの信者のように、信仰の故に、様々な戦いがあり、迫害を受け苦しむのです。

私たちが主を信頼し、主を第一として生きていく生き方は、この世の人には分かりませんから、

摩擦が起こってくるのは当然です。しかしそんな中にあっても、「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい。」と勧められているのです。どうしてでしょうか。

それは、苦しめられている私たちのために、神は報いとして安息を与えてくださるからです。

そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から下ってくる時に起こります。

この時、主は既に眠ったクリスチャンたちと共に来られ、地上にいるクリスチャンたちとは、

空中で会うのです。そして千年の間、王であり祭司として主に仕えて行くのです。人間の歴史は

アダムから始まって、だいたい六千年、その後に来る千年は(七年目の)安息です。

私たちはこの神の国に入ることが出来るのです。

世に妥協せず、信仰を貫いてきた信者だからです。この時代は、目に見える形で、そのような世界に

近づいているのです。

C だから、
「まず神の国とその義とを第一に求めなさい。」(マタイ六章33)

―これがクリスチャンの生き方です。この地上にあって、残りの生涯を神の国とその義を第一に

求めていく生き方を貫いていくことです。
たといこの地上で報われることが少なくても、

アブラハムたちのように、安息の時には、大いに報いを受けるのです。


ですから、「このことばをもって互いに慰め合いましょう。」また、「あなたがたの労苦は主に

あって無駄ではない」のですから。

ですから、地上の残りの生涯を神の国に相応しい生き方をして、喜びと感謝を持って、

労苦の中で励んでいきましょう。

                                        

  
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