『神の国に入る』
第Uテサロニケ1章3〜10節
@ 今朝は、「神の国」をテーマにして考えたいと思います。
A さて、私たちは、神の恵みによって救いを与えられています。これはありがたいことで、
感謝な事です。本来なら、救われるためには、自分が努力して愚かな部分をそぎ落として
いかなければなりません。しかし私たちは、気持ちはあっても行いがついて行かない者で、
正しく完全な生き方はできません。その上、自分の力では救いの確信を持つ事さえ出来ません。
なぜなら、何処までやれば完全だと言われるのか分からないからです。
ところが、人間の行いでる救いを得るのではなく、「信仰によって義とされる」という神の救いが
あるのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義とされた。」とあります。
この神の約束は、神が決して破ることがないということを、神御自身が引き裂かれた動物の間を通る
ことによって証しされました。(創世記15章)。ところが、人間の方が破ってしまったので、
神の御子が十字架にかかってご自分の肉を引き裂くことによって、罪の贖いと神の国に入る約束を
実現してくださったのです。故に、私たちには神の国に入る希望があるのです。
B では、神の国について考えてみましょう。パウロはテサロニケのクリスチャンたちに
語っています。「あなたがたが全ての迫害と患難とに耐えながら、従順と信仰を保っています。
それが、あなたがたにとって、神の国に相応しい者とされるためです。」と。私たちは、救いを
得ると悩むことのない、ユートピアのような世界を期待しますが、決してそうではありません。
テサロニケの信者のように、信仰の故に、様々な戦いがあり、迫害を受け苦しむのです。
私たちが主を信頼し、主を第一として生きていく生き方は、この世の人には分かりませんから、
摩擦が起こってくるのは当然です。しかしそんな中にあっても、「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい。」と勧められているのです。どうしてでしょうか。
それは、苦しめられている私たちのために、神は報いとして安息を与えてくださるからです。
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から下ってくる時に起こります。
この時、主は既に眠ったクリスチャンたちと共に来られ、地上にいるクリスチャンたちとは、
空中で会うのです。そして千年の間、王であり祭司として主に仕えて行くのです。人間の歴史は
アダムから始まって、だいたい六千年、その後に来る千年は(七年目の)安息です。
私たちはこの神の国に入ることが出来るのです。
世に妥協せず、信仰を貫いてきた信者だからです。この時代は、目に見える形で、そのような世界に
近づいているのです。
C だから、「まず神の国とその義とを第一に求めなさい。」(マタイ六章33)
―これがクリスチャンの生き方です。この地上にあって、残りの生涯を神の国とその義を第一に
求めていく生き方を貫いていくことです。たといこの地上で報われることが少なくても、
アブラハムたちのように、安息の時には、大いに報いを受けるのです。
ですから、「このことばをもって互いに慰め合いましょう。」また、「あなたがたの労苦は主に
あって無駄ではない」のですから。
ですから、地上の残りの生涯を神の国に相応しい生き方をして、喜びと感謝を持って、
労苦の中で励んでいきましょう。) |
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