@ 今朝は、私たちがこの地上で生きていく目標について考えてみたいと思います。
A さて、私たちがこの地上に生まれた時、自分が生まれたことの自覚や記憶などは一つも
ありませんでした。また、自分が男として生まれたいと思って生まれたわけでもありませんでした。
すなわち、自分の意志を働かせて生まれてきたわけではなかったのです。しかも、自分が生きている
ことを意識し始めたのは思春期になってからです。それまでは、生きているから、生きているとしか
思っていませんでした。しかし、ある時に、ふと、
「自分は何のために生きているのか?。」と思うようになり、
「自分は、何のために食べ、何のために勉強し、何の目的のために生きるのか?」と考えるように
なりました。しかし、自分が生まれたときの自覚もないのに分かるはずがありません。
ところがパウロは、「目標目ざして一心に走っている」と言ったのです。彼は、どうしてそんな
目標を持つことができたのでしょうか? その動機付けを見てみたいと思います。
B では、パウロの生き方を通し、人間としてどう生きていくべきかを見ていきましょう。
彼は、「自分を見ならう者になって下さい」と言いましたが、個人的なものではなく、普遍的に
誰でもが、目指していくべき生き方を知るためです。そのヒントは、聖書にあります。
「私たちは神の作品であり、・・・神にならう者になりなさい。」(エペソ5章1節)と
あるからです。もし、神が私たちを生んだのなら、神と人間との関係の中で、
生きる目標があります。しかも、ひとりひとりが神のお考えによって造られたのなら、それぞれに
神の召しがあり、一人ひとりに生きる目標があります。
すると、人間としての命を与えられた意味を知ることができます。結論から言うならば、
神の考えはこうです。
「即ち、新しい天と新しい地で、神と人が一つとなって生きていくことです。」
それは、創造主が父として、また、キリストが長子として神の家族を造り上げて、愛の交わりの中で
生きていくことが、神のお考えなのです。私達は神と同じような世界で生きていく者として造られ
ました。そして、同じものを喜び、楽しみ、大切にしていく生き方です。このような意識を持つ
ために、へりくだりを学ばされたのです。なぜなら、神との交わりは、生かされ者としての
へりくだりの中に成り立つからです。だから、人は苦しみの中で自分の無力さを知り、神のように
完全な者ではなく、自分一人で生まれたのではないことを知る必要がありました。
このへりくだりを知って、初めて、生かしてくださった方の目的が分かってくるのです。
ですから、神の家族の一員として迎えられることを目標として生きるべきなのです。
パウロは言っています。「私達の国籍は、天にあります。・・・キリストは、私たちの卑しい体を
ご自分の栄光の体と同じ姿に変えてくださるのです。」だから私にとって、
「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と。この目標を目指して一心に
走っていくのです。
C 聖霊の満たしは、個人の満足のためにあるのではありません。選びの民を集めるためであり、
彼らが神の家族の一員として加えられるためです。この神御自身の働きのために、聖霊の力を受け、
人々をキリストの元に集めるのです。私達は、神の家族の一員ですから、ひたすら天を目ざして
生きていきましょう。 |