@ 今朝は、イエス様に香油を注いだ女の行為を通して、「イエス様に対する信頼の心を表現して
いく」ことについて学びたいと思います。
A さて、イエス様の頭に香油を注いだ女は、ヨハネ福音書を見ると、死から甦らされたラザロの
兄弟、マリヤであることが分かります。しかし、彼女が香油を注いだ時、弟子たちは彼女を非難し
ました。ところが、イエス様はマリヤの行為を全面的に受け入れられて、言われたのです。「なぜ、
この女を困らせるのです。わたしに対して立派なことをしてくれたのです。・・・わたしはいつも
あなた方と一緒にいるわけではありません。・・・世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる
所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。」と。イエス様は、マリヤを
弟子の非難から守られました。
B では、このマリヤの心と、その行為の動機について考えてみましょう。先ず考えられる事は、
「兄弟ラザロの甦りを感謝して、恩返しを込めてしたのでは」、ということです。しかし、福音書を
見ると、病から癒された人間は、自分の願いがかなった瞬間に直ったことだけに目を向けて、自分
勝手な方向に向かっていきます。だから、恩返しというよりマリヤの個人的な信仰の行為であったと
言えます。彼女は、イエス様に対する信頼の心を、純粋な心で表現したかったのです。ですから、
自分にとってかけがえのない高価な香油を、しかも壺ごと献げても惜しいとは思わなかったのです。
ところが、弟子たちは「何のために、こんな無駄なことをするのか。」と憤慨しました。高価な香油
ですから、その一部だけでもいいと思ったのです。しかも、イエス様の頭から流れ落ちるのを見て、
もったいないと思ったのでしょう。これは世的な価値観で見た判断です。だから、主は言われました。
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと
いっしょにいるわけではありません。」即ち、イエス様に対してこの時しかできないことを、
マリヤはしたということです。すなわち、天に行ってからでは、イエス様に対して何もしてあげる
ことはないのですから。私たちにとっても、この地上にいるときしかできないことがあるのです。
このマリヤの行為に対して、主が天で、「あなたは、惜しまずに私に香油を注いでくれたね。」と
言われたら、どんなに嬉しいことでしょう。しかし、もし人の目を気にし躊躇していたら、どんなに
後悔していたことで しょう。天に行ってから献げると言っても、天ではもうその必要はないの
ですから。イエス様に対して私たちが出来るのは、今この時しかないのです。ですから、その機会が
来たら、私たちも恐れずにやりましょう。主は、「マリヤの記念となる。」と言われましたが、
確かに、私たちにとっても記念となるでしょう。これから私たちは、この中に入って行きたいの
です。
C イエス様の足に香油を塗った罪深い女(ルカ7章37〜50)についても、主は言われます。
「この女の多くの罪は赦されている。それは彼女がよけい愛したからです。」と。
この世では鼻つまみ者とされている罪深いこの女も、天に於いてどんなに喜ばれ、受け入れられて
いることでしょう。天に行ったとき、こんな風に言っていただけたら、どんなに嬉しいこと
でしょう。私たちは、この地上で終わりではありません。天があるのです。ですから、この地上に
いるときしかできないことを、人がどう思う思おうが、最善の行為をしていきたいものです。
主に対する信頼の心を、勇気を持って純粋に表していきましょう。 |