『自信を失って』
ルカ22章31節〜34節
@ 今朝は、イエス様を「知らない。」と言ってしまったペテロのつまずきについて学び、
イエス様が彼のために祈られた意味を考えたいと思います。
A さて、イエス様はペテロに言われました。「サタンが、あなたがたを麦のようにふるい
にかけることを願って聞き届けられました。」するとペテロは答えました。「主よ。ごいっ
しょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と実に勇ましく
勝気な言い方をしています。ところが、それが現実となったとき、彼はイエス様のことを
三度も知らないと言ってしまったのです。確かに彼の覚悟に偽りはなかったでしょう。
しかし、なぜそんなにも簡単に知らないと言ってしまったのでしょうか。そのヒントは、
彼の言葉―「主よ。ごいっしょになら」にあるように思います。
B では、ペテロが「ふるいにかけられる」という取り扱いについて考えてみましょう。
まず、イエス様は捕らえられたとき、「この人たち(弟子たち)は、このままで去らせな
さい。」と言われ、ご自身のみが捕縛されました。そして弟子たちだけが取り残されたの
です。それまでは、彼らはいつもイエス様と一緒でした。しかしこの時、完全にイエス様と
分断されてしまったのです。中心の柱が折れてしまい途方にくれて、戦う術を無くして
しまったのです。もはや頼れるお方がいませんから、自分の力で戦わねばなりません。
しかし、ペテロは、「たとい牢であろうと死であろうと」と言いましたが、それはあくま
でも、“イエス様とご一緒であったなら・・・”と言う条件がついていたのです。
ペテロは、最後までイエス様と一緒に戦うため、剣を買って戦おうとしたのです。彼には、
イエス様と一緒なら戦う自信がありました。ところが、イエス様が捕らえられて離ればなれ
になった時、彼の気持ちは折れてしまったのです。そして、イエス様のことを「知らない。」
と 言って自分を守ってしまったのです。そんなペテロを振り向いて見られた主の目が、
彼の心に焼きついたでしょう。彼は、自分独りでは何にも出来ない者だということを徹底的
に思い知らされ、完璧に自信を失ってしまったのです。しかし、完璧に落ちる所に落ちる
ことが、ペテロには必要だったのです。イエス様と一緒でなければやっていけないことを、
彼は思い知る必要があったのです。そして、甦られた主は、「あなたは、わたしを愛します
か。」と語りかけてくださったのです。弟子の中で一番惨めな体験をしたペテロでしたが、
イエス様と一緒でないと何もできないことを身をもって体験し、イエス様の復活の後には、
イエス様がご一緒ならばやっていけると、生涯をかけて従って行ったのです。
C 私たちは、創造主の存在が確かな事実であり、この方から離れては生きていけないと
言うことをはっきりと自覚させられています。ところが普段は、当たり前のように自分が
王様になり、主に頼らなくても生きていけるかのように思っているのです。この自分の中に
ある傲慢が砕かれねばなりません。そのために、ペテロのように自信を失うことが必要なの
です。その時恥をかくことを恐れて、自分が落ち切らないように必死にこらえてはいけま
せん。「自分は何も出来ません。」と、自覚したところに主の御手が動くからです。
そして、そのところから「私にはイエス様がいる!」と、揺るがない正しい自信をつかんで、
ペテロのようにトコトン主に従って行く生涯を歩んで行けるのです。 |
|
|