@ 今朝は、「イエス様に従う」ことが当たり前になるように、そのこころを自分の意志で身に
つけていくべきことを学びたいと思います。
A さて、イエス様が弟子たちに何を願っておられたのかが、このヨハネ福音書の最後の章に
表わされています。それは、「わたしに従いなさい。」というメッセージでした。
もし、イエス様が十字架で死んでおしまいだったなら、「従いなさい。」と言われても、従い
たくても従うことができなかったでしょう。しかしイエス様は、十字架で死なれたあと、
三日目に甦られ、それが事実であることを示めして、彼らにその姿を現わされたのです。
この甦りを通して弟子達は、十字架で罪の代価を支払ってくださったメシアであることが
はっきりと分かりました。さらに、今も生きてとりなしをし続けてくださるイエス様であるなら、
「主よ、従います。」と言えるのです。
B では、甦られたイエス様を目の前にしたペテロの場合はどうだったのでしょうか。
イエス様はペテロに言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、
わたしを愛しますか。」彼は答えます。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたが
ご存じです。」。この同じ問答が三度繰り返されました。これは、イエス様が捕らえられたとき、
彼が自分の身を守ろうとして、三度、イエス様のことを「知らない。」と否んでしまったその
失敗から立ち直らせようとするイエス様の愛の配慮でもありました。ですから、「はい。主よ。
私はあなたを愛します。」とハッキリと自分の気持ちを表すべきでした。
ところが彼は、その意志を表さず、「あなたがご存じです。」と、イエス様に預けるような
曖昧な返答をしたのです。何故ですか?彼の心に、「イエス様のためなら命も差し出します。」
ひるがえ とが
とまで言っておきながら、それを翻してしまったという咎めがあったからです。しかし、そうで
あったとしても、三度も同じ事を聞かれたのですから、主は、ペテロの今の気持ちを聞きたいん
だと分かるはずですが、最後までハッキリと言いませんでした。
ですから主は、「他人には関係なく、どこまでも自分の決断を自分の意志で表し、わたしに
従ってきなさい」と、言われたのです。人任せではなく、ハッキリとした自分の意志による
決断で主に従っていくべきだからです。もしペテロが、その後も同じような状態だったなら、
使徒行伝に見るような働きは出来なかったでしょう。確かに、一度裏切った事を思えば、最後
まで従って行けるだろうかと不安を感じ、心の中で問答したことでしょう。しかし、最終的には、
はっきりと決断したからこそ、使徒の働きができたのです。
C 私たちは、「そう出来たらいいな。やりたいな。」と思っているだけでは何にも始まりま
せん。「出来るかな、怖いな、」と心の中で不安を抱えても、「それでも私はやる。」と決断
するのです。これが私たちの心の決断をスタートさせる秘訣です。自分の意志で「イエス様に
従うことが、私の本心です。」と身に着けていくなら、私たちもペテロと同じように用いられて
いくのです。この決断が、全てのクリスチャンに求められています。この心を自分の意志で身に
つけていきましょう。 |