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2007年1月14日




 『いのちと体は別もの』



ルカ12章13節〜34節





@  今朝は、何故私たちは「食べること、飲むこと」のために気をもむ必要がないのか。 

また、何故何よりも「先ず、神の国とその義とを求めなさい。」と言われているのか、その根拠に

ついて学びたい
と思います。

A さて、イエス様は言われました。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいのかと気をもむこと

をやめなさい。」と。“気をもむ”とは、思い煩ったり、心配したりすることですから、それを止め

なさいと言われているのです。だが現実的に私たちは、着る物に気を使い、食べることにも気を

使います。こういう現実の中にあって、心配するな、気をもむなと言われても、現実的には難しい

なと読み流したり、聞き流したりしてしまいます。しかし、私たちは、「聖書に書いてあることは、

今日も起こる」。ことを証ししたいと願っていますので、聖書そのものによって生きることを

実践していかねばなりません。一切“気をもむな”ということは簡単に出来る事ではありません

が、やっていかねばなりません。

B では、何故気をもむ必要はないのでしょうか。イエス様は、「あなたがたのうちのだれが、

心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」と言われましたが、

この私たちのいのちは誰のものなのでしょうか。自分自身のもの?それとも創り主のものですか。

結論から言うならば、いのちは私たちのものです。何故なら私たちは、イエス・キリストによって

永遠の命を頂いたからです。ところが、私たちの肉体に関しては違います。私たちの体は次のよう

に言われています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、創り主から受けた

聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」と。

即ち、
いのちは自分のものでも、この体は私たちのものではないのです。この体は、生きた供え物

として献げていくものです。
しかしながら創り主は、私たちの体も地上にある限り、必要である

ことを知っておられます。ですから、生かしておこうという御心があれば、食べ物は与えてくだ

さる方です。このようなわけで、気をもむことはせず、「何はともあれ、先ず神の国とその義とを

求めなさい」と言われているのです。永遠のいのちは、財産によるのではありませんから、穀物や

財産はいのちの保証にはなりません。食べる物は体のためであり、たとい餓死して体を失しなって

も、創り主が創られた命は失われることはなく、その名は天に記されているからです。

C 
私たちは、いのち(霊魂)と体は別物だと考えていくべきです。そうすれば、問題が起こった

とき、その問題がどちらの部分に属するかを考えて、聖書に記されている所に立って判断をして

いけるのです。それは、自分の身()を守ろうとせず、信仰による判断に立って、世的な考えの

発想を転換していけるのです。
私たちは、空の鳥や野の百合よりも優れて創られています。

さらに、永遠の命さえも与えられています。ならば、
この体は創り主の栄光を表すためにあるので

あって、体のために気をもむ必要はないのです。

    



                                        

  
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