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2004年5月16日 |
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「御霊による心の割礼」 |
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ローマ書2章17〜29節 |
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@ 今朝は、ユダヤ人の持っている信仰の特徴を考えながら、異邦人クリスチャンである私たちも、 おちい 陥ってしまう霊的問題について学びたいと思います。 A さて、ユダヤ人は、知識と真理の具体的な形として律法を持っています。ですからユダヤ人の 多くは、知識的には、神は目に見えない唯一の方であり、天地を創られた方であると知っています。 あが 彼らにとって、神を信じるのは当たり前のことです。それ故に彼らは、神を神として崇めず、偶像を さば 作って真の神から離れていった異邦人を裁いていました。ところがパウロはユダヤ人たちに語った のです。「さばくあなたが、それと同じことを行なっている。」と。 パウロは、「神を知っている、あるいは信じていると言う事と、救われているということは別問題なの すなわ だ。」と言っているのです。即ち、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、からだの割礼が割礼なので はない。人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、御霊による、心の割礼こそ割礼なのだ。」と。 B では、この真理を、私たちに適用して考えてみましょう。 このことはとても重要なクリスチャンのネックポイントです。というのは、「イエス・キリストを 信じている。」、あるいは、「神を信じている。」と言いながら、新生(ボーン・アゲイン)していない クリスチャンがたくさんいるからです。彼らは、ただ頭で、知識として信じているだけで、自分と イエス様とのかかわりを信じていません。ですから、救われた者としての歩みがないのです。 もし、イエス・キリストを信じて魂の救いを味わっているなら、「神の御心に従いたい。」と願い、 その中に歩んで行くでしょう。救いの喜びという神からの霊的なものが、行いとなって現れてくる からです。それこそが「御霊による心の割礼」なのです。ただ信じるだけなら、悪魔でさえ信じて 身震いしているのです。しかし、悪魔は神に従うことはしません。ですから、救われた者としての 歩みがなければ、信じているか否かが分からないのです。信仰による行いは、その動機がいつも “神のために生きたい”にあります。しかし頭だけの場合、その動機は、「しなければならないか ら」とか、「怒られたくないため」であったりするのです。これは信仰から出たものではなく、 肉の義務感にあるのです。ですからパウロさんは、ここでキリストを信じる信仰とは、頭で信じる 信仰ではなく、心で信じることの意味を伝えたかったのです。ユダヤ人は頭だけで信じ、律法を 持っていることに安んじ、そこに逃げ込んでいたからです。 C では、私たちが、知識による信仰ではなく、真実な信仰と霊的な強い心を持って神の前に歩ん でいくためには、どうしたらよいのでしょうか。実は信じた私たちも、肉の思いがいっぱい入って くると霊が弱くなり、未信者と同じようになり、自分が救われていることさえも分からなくなって しまいます。しかし、新生しているなら、たとい霊が弱くなっていても、内住していますから、御霊に よって、肉を断ち切っていけば、霊が強くなり、救われたものとしての歩みが始まるのです。 私たちは弱さを持っており、すぐにその肉に逃げようとします。しかし弱さに立ち向かい、御霊に よって歩むなら、堅く信仰に立っていけるのです。パウロさんは、そのことを願ってローマ書を 書いたのです。ですから、信仰に立ってこの手足を義の器として捧げていきましょう。 |
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