「自我を砕き神に従う」
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ヨシュア記24章1〜31節
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@ 今朝は、ヨシュアの遺言を通して、「主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。」
言われていることは、自我を砕いていくことだ、ということを学びたいと思います。
A さて、ヨシュアはこの24章で、神がイスラエルを導かれた歴史を回想し、民に選択を迫って
います。それは、自分の死を目前にした遺言でもあり、イスラエルの民に、「主を恐れ、誠実と真実を
もって主に仕えていく」ことを願ったからです。彼らの周辺には偶像をあがめている民が大勢いま
した。しかも、イスラエルの民自身も出エジプトした時に、シナイ山で偶像を作ったという過去の
背信がありました。ですからヨシュアは、「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に
仕えなさい。・・・もしも主に仕えることがあなた方の気に入らないなら、・・・あなたがたが
仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」と、民に心の
決断を迫ったのでした。それは、「主に仕える」と言っている民も、最後まで主に仕えていく
ことは出来ないと、ヨシュアは知っていたからです。人の心は、どこまでも自分勝手だからです。
B では、「主に仕える。」とはどのようなことでしょうか。
仕えるということは、「従うこと」を意味しています。ですから、神を信じるとは、「神に従うこと」
なのです。しかし私たちの中には、自分の考え通り、自分の思い通りに生きていきたいという強い
“自我”があります。ですから人間は、自分の都合よく願いをかなえてくれるものには従います
が、そうでないと背を向けるのです。だから人間は、自分にとって都合のよい偶像は拝みますが、
従わなければならない神には背を向けるのです。世界を征服してきた王たちでさえ、自分に都合
よく勝利を与えてくれる偶像を作って拝んできました。それは、世界を征服する力のある王で
さえ、自分の目で見えるものにすがりたいという弱さを持っていたからです。それは、人間が真の
神から離れ、神が私たちと共にいてくださる、という安心感を失ったからです。私たちは、私たちを
造ってくださった父の元に帰らない限り平安はないのです。にもかかわらず、どこまでも自分を
主人とし、自分の考え、自分の願いを肯定してくれるものだけに目を向けようとする人間の罪が
そうさせるのです。これこそ“自我の根”であり、原罪なのです。神を信じると言いながら、この
自我を働かせるというのは二心であり、自分自身を不自由にするものです。もし、神に従い、神の
ために生きていこうとするなら、イヤだと思う自我を砕いていかなければなりません。
一度砕いてもなお自我は死ぬまでありますから、砕き続けていくのです。しかし、一度砕いた
自我は、次からは容易く砕くことが出来ます。
C 私たちは、生ける神に仕えたいと願っています。その私たちに対して神は、「自分を捨て、自分の
十字架を負って私に従ってきなさい。」と言われました。自我を砕きたいと願っても、自分でどう
にもならなかったなら、イエス・キリストの血に頼って祈ってください。「私の自我を砕いてくださ
い。」と。主は、喜んでその様にして下さいます。その時、ヨシュアの遺言どおりに、誠実をもって
主に仕えて生けるようになるのです。
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