「聖霊のバプテスマと満たし」
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使徒19章1〜7節
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@ 今朝は、聖霊のバプテスマと聖霊の満たしの違いについて考えてみましょう。
A さて、これまで私たちは、「空っぽの器に油が満たされる。」と聞いてそれを願い、“その満たし
とは聖霊のバプテスマだ”、と考えていました。ところが、いろいろな本を読んでも、聖霊の
バプテスマと聖霊の満たしの違いがはっきりと出てきません。ですから、私たちの祈りもはっきり
していませんでした。しかし今回、使徒行伝を読む事によってはっきりと区別が出来ました。
それによってこれからの私たちの祈りも、これから神が私たちの教会にして下さる事も、
よりはっきりしてくるように思います。
B では、エペソの教会で起こったことを通して、その違いを考えてみたいと思います。
そのポイントになるのが2節の「信じたとき、聖霊を受けましたか。」というパウロの言葉です。
彼はエペソの信徒たちと会った時、何か足りないものを感じてこう尋ねたのです。しかし、私たちは
信じた時に聖霊を受けました。その時聖霊が内住されて聖霊の宮となった私たちは、聖霊の証印を
受けている者です。イエスを「キリスト」と告白できるのは聖霊の働きがなければ出来ない事
ですから、エペソの信徒たちにも、同じように聖霊の内住は与えられたのです。そこで、“信じた
とき”と訳されているギリシャ語を見てみましょう。アオリスト分詞が使われており、
“信じた後に”と訳した方が正しいと分かりました。パウロは、目で見、形で分かる印を伴った
聖霊の証しを意識して尋ねたのです。それは、聖霊の内住とは明らかに違うものであって、
百人隊長コルネリオの上に起こった出来事を見るときに、はっきりと分かります。その場にいた
ペテロは、コルネリオたちが異言を語り、神を賛美する聖霊の賜物が与えられた事を見て、彼らに
聖霊が下ったことを確認しました。その表れとしての賜物を見た時、その現象こそが、使徒たちが
初めに受けたあの同じ聖霊のバプテスマであると確信したからです。即ち、聖霊のバプテスマとは、
御霊の実としての聖霊の賜物を頂くことなのです。
一方、使徒行伝には度々「御霊に満たされ・・・」と出てきます。4章31節を見ると明らかなよう
に、聖霊の満たしは、主の働きを大胆に行なっていくときには必要なのです。使徒達は聖霊の賜物を
受けたあとにも、なお御霊に満たされて働く事によって、力強く、大胆に働くことが出来たのです。
ですから、「いつも御霊に満たされていなさい。」と言われていたのです。ですから、聖霊のバプテ
スマと聖霊の満たしとは違うのです。
C 私たちは、「聖書に書いてあることは今日にも起こる。」と証ししていきたいと願っています。
そのためには、上から力を受け、聖霊の賜物を頂く必要があります。何故なら、「聖書に書いて
あることは、今日もある。」事を証ししようとしているのですから。ですから、私たちの求めて
いる焦点は、聖霊のバプテスマです。また、頂いた賜物を正しく、力強く使っていくためには、
御霊の満たしが必要なのです。これらのことを正しく、またはっきりと意識して求めて行きま
しょう。そして、「今がその時だ。」と主が言われますから、大胆に願って行きたいと思います。
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