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2004年2月29日

                      
「主のために生きる

第Uコリント5章1〜20節





@ 今朝は、天からの住まいを着たいと望んでいる私たちは、どこに焦点を置いて生きて行けば

よいのか、学びたいと思います。


A さて、一節に、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても・・・」とあります。確かに、

私たちのこの身体は壊れてしまいます。年老いれば介護されなければ生きていけない時が来、

そして自分の子どもさえ識別できなくなる時が来るのです。正に、ほとんど壊れてしまった自分の

身体からは、苦労してきた報いをそこに見ることは出来ません。ただ言い知れない空しさを、しみ

じみと感じるのです。今、若さを誇っている私たちも、いずれ同じようになっていくでしょう。

しかし聖書には、次の御言が続きます。「神の下さる建物がある。それは、天にある永遠の家です。」

と。すごい希望がここにあります。 クリスチャンは、たとい空しい死に遭遇したとしても、天の

住まいを持っていますから、その時には、死ぬべきものが、いのちにのまれ、永遠の報いの中に

入れられるのです。
こんな素晴らしい希望が、キリスト・イエスにあって与えられているのです

から、老いていく空しさの中にあっても、報いがあるのです。しかし、この神からの保障を持たな

い人は、その労苦の報いはありません。しかし、キリストにある者は、神はその保証を御霊を下さ

ることによって明らかにしてくださいました。

B では、天に住まいを備えられている私たちは、この地上にあってどのような心で生きていけば

よいのでしょうか。
まず、二つの生き方があります。一つは、自分の弱さばかりを見、自分には生きて

いる価値がないから、早くこの幕屋を脱いで天に行きたいと考える、後ろ向きな生き方です。

もう一つは、天からの住まいを着たいと願う積極的な心から、前向きに生きる生き方です。

後者は、天にある報いに目を留め、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれる事です。」と、自分の

弱さを見ても投げやりにならず、最善を尽くして行こうとするのです。天に希望を置いたこの生き

方こそ信仰による生き方です。もし、昔ながらの自分の弱さばかりを見て、「ダメだ。ダメだ。」と

人生を終えるなら、天で受ける神様からの報いに、感動できないでしょう。

しかし、私たちの弱さ・愚かさ、またあらゆる一切の罪を贖い清めてくださったキリストを見上げ

ていくなら、神が、キリストにあって新しく造り、「全てが新しくなった」と見てくださっている

恵みを味わうのです。

ですから、古い自分の対面やプライドのために生きてきた自分を捨て、自分を満足させるためでは

なく、キリストを満足させるために生きていくと、心を定めた時、「私たちの念願とするところは

主に喜ばれる事です。」という生き方が始まるのです。そこに、天に住まいを持つものの生き方が

あるのです。


C もし、神がいらっしゃらなければ、地上の労苦に報いはなく、朽ち果てていくだけです。

しかし私たちは、この地上の幕屋が壊れても、神の下さる建物があるのですから、残りの生涯を

キリストのために心を捧げ、なりふり構わず、ただ主を満足させるために生きて行こうではありま

せんか。



                               

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