@ 今朝は、ダビデの罪の告白から、イエス・キリストの罪の赦しと、救いについて学びたいと思い
ます。
A さて、この詩は、イスラエルの王であったダビデが罪を犯し、それを指摘された時に歌った詩で
す。ダビデは正直に告白しています。「私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の
目の前にあります。」と。私たちもダビデと同様に自分の罪を知っています。たとい表面に出なくて
も、私たちは心の中で悪しき事を考えるのです。ですから、もし自分の額にテレビ画面が付けられ、
かっぽ
心で考えたことがそのまま映し出されたら、私たちは街の中を闊歩出来るでしょうか。
もし死ん
で、神の御前で生前の行い、心の思い、頭で考えた妄想などが全部スクリーンに映し出されたなら、
どうでしょうか。私たちは恐れと、恥ずかしさでいたたまれなくなるのではないでしょうか。 罪の
無い人は一人もいません。しかし、私たちは、あたかも罪が無いかのように装い罪を隠すのです。
そのために、嘘に嘘を重ねて偽りの自分を作り上げて行きます。ですからそむきの罪の苦しみが、
いつも私たちの目の前にあるのです。
B では、罪の苦しみから解放されるには、どうしたらよいのでしょうか。
この51篇が詠まれたいきさつはこうです。ダビデは、部下の兵士ウリヤの妻であるバテシバを、
夫が戦場に出て戦っている時に召し入れ、妊娠させてしまいました。その卑劣な罪を隠そうと、策を
練った挙げ句の果てに、忠実な自分の兵士であったウリヤを激戦地の最前線に連れ出し、殺してし
まったのです。このような陰謀が隠密裏に実行され、上手く行ったと思われたその策略の全てを、
知っておられる方がいたのです。その神は、預言者ナタンをダビデの許に遣わし、隠されていた罪を
指摘し暴かれたのです。その時ダビデは初めて、自分の罪の全てが知られていると分かり、恐れを
覚えました。そこで正直に自分の罪を認め、告白して祈ったのです。私たちも、人に知られたら恥ず
かしいと思うことをたくさんやってきました。心に思ったことや、考えたことまでも明らかにされ
たら、いたたまれなさと、恐ろしさを覚えるはずです。神の前に隠しおおせるものは一つも無いの
です。実に私たちは、「咎あるものとして生まれ」たのです。ですから、もし罪が無いと言うなら、その
人は大嘘を言っているのです。ダビデは自分の罪を正直にありのまま認めて祈りました。 「どうか
私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」と。これが砕かれた悔いし心
だったのです。神の目的は、ダビデの罪の心を砕くことだったのです。
C 私たちも、罪を告白せず、一生涯隠し続けるなら、こんな辛く苦しいことはありません。
しかし、もし情けと、あわれみによって、全ての罪が赦され洗い聖められるとしたら、なんと幸いな
ことでしょうか。自分の罪を正直に認め告白するとき、罪の圧迫から解放され、それ以上痛めつけら
れることはない平安を経験するのです。それは、神の救いがあるからなのです。神はその救いのた
め、イエス・キリストを十字架によって、私たちの罪の贖いをしてくださいました。ですから、この方
の許に、自分の罪の全てを告白し、ダビデのように主の赦しと、救いを頂きましょう。
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