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2009年3月1日






『キリストのために生きる生き方』



第Uコリント5章11〜21節







@ 今朝は、15節の御言に目を留め、「キリストのために生きる生き方」について学びたい

思います。

A さて、パウロは言います。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々

が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなの

です。」と語っています。確かに、本気で「キリストのために生きていく」と定め、それを実践

していくことは、素晴らしいことです。神の生きた力を、直に味うからです。

B では、「もはや自分のために生きていくのではない」ことについて考えてみましょう。

唐突ですが、もし人間が、植物のように葉緑素を持ち、二酸化炭素と光エネルギーによって

光合成を行い、生きていけるとしたら、働かなくてもいいことになります。

なぜなら、二酸化炭素と光は、いつも空気中にあります。水もまた地中に含まれています。

しかし創造主は、そのようには人を造られませんでした。私たち人間は、植物が造ったデンプン

を食べて、エネルギーを補給していかなければ生きていけないのです。それ故、アダム以来、

額に汗を流して糧を得るようになっているのです。ですから、人間は自分の労働の力で糧を得て

生きていると思っています。しかし、現実は全ての面で創造主に依存して生きています。

なぜなら、植物が光合成によってエネルギーを得て、そのエネルギーを人間が利用する仕組みは、

全て人間が造ったものではなく、創り主の叡智の業です。すなわち、私たちは、その創造主に

生かされているのです。だから、
自分の命を、創り主のために本当の意味で価値あるものとして

使って生きていくべきなのです。そこでパウロは、冒頭に記したような御言葉を語りました。

ところが、私たちの多くは、「自分のために生きています。」その結果、自分のことしか考えなく

なり、自分の命が危なくなれば、夫婦は離婚し、子供と親の関係さえ壊れていくのです。

こうして不幸になり、生きていくことがイヤになってしまうのです。私たちには先のことは一切

分かりません。ただ自分の命も人生も、自分の思い通りにはなりません。それでも自分は、

何でも出来ると、おごり高ぶり、自分は誰からも後ろ指、指されるような生き方はして来なかった

と言い切ります。しかしながら、人がどんなに真面目に生きてきた人でも、思い出したくない

過去を持っています。だから、死んだ後に人生の精算をうけ、その行いに応じて報いを

受けなければなりません。

C ところが、こんな私たちが受けるべき一切の報いを、代わりに受けて下さった方が

いらっしゃるのです
。その方はイエス・キリストです。キリストは、御自身の命をまるごと

差し出し、その命と引き替えに、私たちの罪の報いを丸ごと精算してくださいました。

私たちのために死んで下さったこのキリストの救いを受け取るなら、私たちは、罪の裁きから

免れ、新しく造られた者として生きていけるのです。

この新創造の命は、過去の自分の命の延長ではありません。過去の命は、キリストにあって

御破算となったのです。
ですから、キリストにあって、新しい創造の命を頂いた者は、

キリストのために生きていくのです。
しかしながら、古い肉の性質を持っていることも

事実です。それは新創造の生き方を邪魔しますから、この肉を砕いていかなければ、新しい生き方

を全うできません。それを全うする秘訣は、
肉を砕いていくことです。クリスチャンは、

罪の償いが全部されて、永遠の命も保証されているのですから、もはや自分のために生きる必要は

なく、キリストのために生きていけばいいのです。この信仰の基本に戻り、信仰の醍醐味を

味わっていきましょう。  



    


                                        

  
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