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2009年2月15日







『捕らわれの霊たちのところへ』


第Tペテロ3章18〜22,4章5〜6節





@ 今朝は、イエス・キリストが、「捕われの霊たちの所へ行ってみことばを宣べられた」

という御言について考えてみたい
と思います。

A さて、ペテロは、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」(4:5)と語っています。

そう言われると私たちは、「本当に?」「何のため?」「死んでからでも福音が聞けるの?」

等と、次々と問いかけたくなります。しかし、他の箇所でも同じようなことが記されているの

です。例えば、「彼(キリスト)がまず地の低い所に下られた」(エペソ4章9)とか、「彼は

ハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」(使徒2章31)と言われているように、

キリストは捕らわれの霊たちの所に行って、みことばを語られたのです(Tペテロ3章19)。

これまで私たちは、生きている内に信じなかったらダメ、と思っていました。

しかし、「死んだ後でも、みことばを聞くチャンスがある」ということのようです。

B では、その真意を考えてみましょう。まず私たちは、生きている人々も、死んだ人々も、

全てが裁きの場に立たされ、申し開きをしなければならないことを覚えなければなりません

(4:5)。それはノアの時代の人々と同じです。ノアの時代の人口は、おそらく、現在と匹敵

する人々がいたことでしょう。しかしその中で、ノアから神の裁きについて聞いた人々はわずかで

あり、多くの人々は突然の大雨で、訳も分からずに洪水に飲み込まれて死んで行ったこと

でしょう。それは現代でも同じです。福音を一度も聞くことなく、死んでいく人々はたくさんいる

のです。ところがイエス・キリストは、ノアの時代に「従わなかった霊たち」の所に下って行って

みことばを宣べられたとあります。それは、「肉においては死に渡され、霊においては生かされて

私達を神のみもとに導くためでした。」とあるのです。そこで考えてみたいのは、ハデスの

苦しみの中で福音を聞いたなら、誰もが悔い改めて救われるだろうか、ということです。

ここで参考になる記事があります。ヨハネ黙示録15章8〜11節のみことばです。「人々は、

激しい炎熱と、はれものの苦しみの中で、神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い

改めようとしなかった。」とあります。人は、神の裁きを目の前にしたら、心刺されて誰でも

悔い改めるのでは・・・と考えてしまいますがそうではありませんでした。何が欠けている

のでしょうか。それは、「砕かれた悔いし心です。」たとい未信者であっても、今の時代にこの

「悔い改める心を持って間違っていた。」と我を砕ける人は、ゲヘナの苦しみの中でも悔い改める

ことが出来るでしょう。しかし、この地上でも反抗的で、自分の我を主張する人は、その場に

置かれても反抗し、悔い改めないでしょう。ですから、生きているときに「砕かれた悔いた心」

を持っていることは、永遠の幸いにつながるのです。

C 
クリスチャンも残りの人生を主に従っていくためには、この「砕かれた悔いた心」を持っていく

ことは、永遠の祝福に繋がります。なぜなら、この心こそが、救いに入る入り口であり、主に

従っていく秘訣だからです。この心を砕くとは、自分中心な思いから神中心の心に入れ替える

ことです。
即ち、逆ギレしたり、尻をまくったり、出来ないとか、イヤだと反抗する心を放棄する

ことです。そうすれば、砕かれた心を持って生きていくことの幸いと喜びを味わうでしょう。

この幸いの中に生きて行きましょう。  



    


                                        

  
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