私たちにとって、本物の永遠の価値ある宝は、「砕かれた心」です。
地位も名誉も財産も天において何の価値もありません。それらは、すべて地上のもので、
死をもって終るものです。しかし、永遠の価値は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを
尽くして、ヤハウェなるあなたの絶対主を愛せよ。」という心にあります。絶対主が
欲しいのは、心です。絶対主は「悔いし、砕かれた心を蔑まれません。」イエス様は、
絶対主の命を受けて、自らの意志で私たちのところに来て下さいました。
そして、絶対主の命に従い、人の罪の償いのために、命を差し出して下さったのです。
主は、言われます。「馬小屋で生まれ、大工の子として育ち、身分も名もないものとして、
絶対主に従う者であった」と。それなのに、私たちは、天で主と出会うと、主の心を
見ようともせずに、「私はこれをしました。あれをしました。イエス様、私の献げものは
どのようになっておりますか? わたしがした事を喜んでくれていましたか?」と言う者
もいるのです。たとえ、主に召された働き人でも、「これをしました。あれをしました」
と言えるのでしょうか。嘆かわしいことです。人は、生まれながらに罪人です。
ですから、この世にあって「悔いし、砕かれた心」、「遜りの心」を掴むために、
いろいろな経験、いろいろな試み、いろいろな困難があるのです。
人は、どこまでいっても罪人です。罪の製造機で、生まれながらの欠陥商品です。
そんな、私たちのためにイエス様は来て下さいました。
それなら「心遜って、心低くして」私たちは丁度ではないでしょうか。罪人が何をして、
認めてもらえるのでしょうか。罪人が何をして、褒めてもらえるのでしょうか。
イヤ、怒られて、叱られて、責められて丁度です。私たちはただ、こんな罪人に救いの
道が開かれたことだけで、心低くして感謝するのみです。イエス様は、最低の人間を
救うために、あえて最低の環境を甘んじて馬小屋で産れ、最低の貧しい者さえも救って
下さる救い主として「砕かれた心」を持って下さったのです。ですから、このイエス様と
結び合わされるために、私たちが傲慢であっていいのでしょうか。「悔いし砕かれた心」
こそ、私たちがイエス様と結び合わされる心です。
|
|