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(起) 「砕かれた悔いし心」を持って生きていく歩みについて学んでいきたいと思います。 (承) さて、まずは7章から見ていきますが、この7章には、律法について記されています。 律法というのは、私たちの違反を指し示しているものです。これは、創造主がお決めになった 規則ですから、聖なるものであり、正しく、良いものです。しかし、私たちはいつも律法に 対して素直ではありません。「してはいけない。」と言われるとやりたくなってしまうのです。 とりこ そして、罪の原理の中に虜になっていくのです。それは律法が悪いのではなく、私たちの罪の 仕業です。私たちは、生まれながらに親の罪の性質を受け継いでいますから、「したくない」と 思ってもしてしまうし、律法の命じるところを行いたいと思っても、その通りにできないのです。 ですから、パウロさんは、「何という惨めな人間なのでしょう」(7:24)と言っています。 私たちは、確かに創造主の前に罪人です。罪を犯して、創造主に対して「ごめんなさい」と 謝って悔い改めても、惨めな自分は残りますから、また同じことを繰り返してしまいます。 こんな私たちは本当に惨めな人間です。謝って、赦してもらっても、またやってしまう。 このような、どうしようもない罪人です。それが分かったら、残るものは何ですか。 創造主の前に、へりくだるしかありません。それが分かれば、クリスチャンは皆へりくだり の世界に入っていくはずです。 (転) では、罪人が、へりくだりの世界に歩むには、どのように歩んでいけば良いの でしょうか。「惨めな人間、どうしようもない人間」というだけだったら、「自分はダメなん です」と言って、一生涯生きていくだけです。しかし、私たちは、創造主の恵みの元に あります。 私たちの、この死ぬべき体、惨めな自分は、イエスキリストとともに葬られ、新しい命の中に 歩むようにさせられたのです。(ロマ6:4)創造主は、イエスキリストをよみがえらせたように、 私たちも、イエスキリストにあってよみがえらせて下さった者と言って下さっています。 ですから、私たちは、この中に歩んでいけば良いのです。こんなに惨めな人間ですが、 イエスキリストにあって、イエスキリストに信頼して助けてもらって生きていくことができます。 それが私たちの生き方です。私たちの努力や行いではありません。ただ、キリストイエスの 恵みによって値なしに義とされ、このイエスキリストの命の中に生きれる者とされたのです。 生まれながらの肉だけ見たら、ゲヘナにいく人間です。しかし、そんな者に、イエスキリスト にあって生きる道が与えられたのですから、感謝です。私は、自分が惨めな人間だと十分 分かります。しかし、イエス様はそんな私を使ってくれると言われるのです。「だったら、 私に力を下さい。仕えていける力を下さい。」というのが私たちの心底の願いです。 それだけです。この真理に皆さんが全員が立てばいいのではないでしょうか。創造主の前に 正直に、「私は惨めな人間です。」と認め、創造主の前にへりくだり、砕かれた心を持って、 イエスキリストの助けと、導きの中で生きていけばいいのです。そして、その心を持ち続けて いけば良いのです。この砕かれた心は永遠だからです。 (結) そこで、聖霊さまは言われました。「ここから始めましょう。これから、あなたは バイブルランドやノアの箱船ミュージアムという大きな仕事をしていきます。そのために、 全世界の富を任せましょう」と。人は、富を任せられると傲慢になり、自分が何者かである ように勘違いします。働きを任せる以上は、へりくだった者でないと任せられません。 だから、聖霊の満たしを受ける前に、この心が必要だったのです。私たちに必要なのは、 砕かれた悔いし心だけです。そして、私たちはこの心を持って、イエスキリストにあって 生きていくことができるのです。ですから、イエス様に頼って生きていけば、私たちの道は 主が導いて下さいます。今、私たちは、この当たり前のところに立ち、この道に歩で行き ましょう。 |
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