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『聖書にある真理の二面性について』
使徒13:44〜52
(起)真理の二面性について学んでいきたいと思います。
(承) 私は使徒行伝を読みながら、13:44の「全市を上げて、絶対主の言葉を聞きに集まって
きた」というこの御言葉は、決して他人事ではなく、「私たちの内に、その通り起ってくることだ」
という期待感を抱きました。それだけではなく、私たちは今現実に、「聖書に書いてあることは、
今日も起る」ということを経験させられています。例えば10章を見ると、コルネリオの幻の中に
御使いが現れ、御使いの言葉を聞いたとありますが、私たちも同じように、御使いの言葉を聞く
ということを現実に味わい、又、御使いを見ています。それ以外にもあります。それは、御霊の声
と悪霊の声の二つを聞いています。私たちはいろいろな事を通して、御霊だけではなく、
悪霊も語りかけてくるということを経験しました。ですから、私たちは御霊の声と悪霊の声を
しっかり見極めなければいけません。その見極める時に大切なことは、頭ごなしに否定するの
ではなく、まずはありのまま聞いて、主の前に判断することです。それは、ペテロさんの時も
同じように、必ず事の次第がはっきり見えてきます。真理の二面性を理解することについても
同じです。私はある時期から、神学校で学んだことや、今までの自分が持っていた固定概念を
一旦全部横に置いて、聖書を読むことにしました。そして、見えてきたことは、聖書には
二面性があるということです。
(転) では、真理の二面性とはどういうことなのか、考えてみたいと思います。
�U列王記5章に、ナアマン将軍のことについて出てきます。彼は、らい病に冒されていましたが
癒され、絶対主の存在を知りました。そして、「絶対主に仕えていきたい」という気持ちを
持ちました。しかし、そのためには、彼にとって難しい問題がありました。それは、自分が
仕えている王が、リモンの神殿に礼拝をしに行く時、自分も付いて行かなければならない
ということでした。もちろん行きたくないのですが、将軍である立場上、行かないと言う訳にも
いきません。
ところが、その時エリシャが彼に言った言葉は、以外にも「安心して行きなさい。」だった
のです。では、偶像礼拝をしても良いということなのでしょうか?私はこの所が分かりません
でした。しかし今回、隠れキリシタンの件を通して教えられました。彼らはイエス様を信じて
いましたが、そのことを隠し、お寺には自分の名前を届け、葬儀などもお寺で行っていました。
毎年、正月になれば踏み絵も踏んでいました。イエス様を信じていながら、外見では偶像礼拝
をやっていたのです。しかし、そのような人たちは即座に絶対主の裁きかといったら、実は
そうではなかったのです。彼らは見つかって捕まった時、どんなに恐ろしい拷問を受けても、
最後までイエス様を信じる心を失いませんでした。彼らのその心を見て、「わたしは彼らを
見放すことはできない」と、イエス様は言われました。それは、イエス様も同じところを
通られた方として、彼らの心が分からないわけではないからです。イエス様は十字架にかから
れる時、「この杯をわたしから取り除けて下さい」と言われました。イエス様も、私たちと
同じように、「この十字架苦しみから、遠ざかりたい」と思われたのです。しかしその後で、
「父の御心のままになさって下さい」と心を定め、ご自分を全部お捧げになりました。
ですからイエス様は、心の中の葛藤を決して無下にはなさらず、それさえも汲み取って
下さる方なのです。でも、だからといって偶像礼拝をしていいということではありません。
それは、律法から見るならば、絶対に赦されないことです。しかし、「律法では義とされる事
のできなかったすべてのことについて、信じる者は誰でも、イエス様によって義とされる」
のであり(13:39)、イエス様は私たちのすべての罪を赦すために来て下さったのです。
ここに真理の二面性があります。ですから、一面だけで、絶対主の心は分かりません。
この二面性があって、初めて、その一つ一つの正しい真理を理解することができるのです。
即ち、絶対主の心知り、またイエス様の愛を知ることが出来るのです。
(結) ですから、絶対主の真実な心を知るために、すべてに二面性があるのです。
ですから、私たちがイエス様の前に心を定めて、身を差し出した時、初めて私たちは真実な
心が生まれ、平安も与えられます。自分の身を守って頂くのが救いだと、一方的に考えては
いけません。また、ただ主の前に遜るだけではいけません。遜るなら、身も差し出さなければ
成りません。自分が助かりたいなら、自分の身を差し出すのです。いいでしょうか。
私たちは罪人ですから、「行いにおいて、何もかも全部やります」とは言えないのです。
しかし、「あなたに対して無条件に従います。聞いていきます」という、その心だけは
持てるのではないでしょうか。聖霊のバプテスマを前にして、絶対主が私たちに求めて
いるものは、それだけです。すると、「絶対主の言葉はますます盛んになり、どんどん
広まっていきます」。御使いの具体的な助けも受けていくようになるでしょう。
私たちの目の前で起こってくることは、使徒行伝以上のことです。主は、私たち一人一人に、
「あなたはこれをしなさい。私が共にいるのですから、大丈夫ですよ」と言って、使って
下さるのです。私たちは、イエス様の 働きに参加させていただけるのですから、
主の前に遜って、「使って下さい」と素直に身を献げていきましょう。 |
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