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 2013年11月10日 





『聖書にある真理の二面性について』



使徒13:44〜52




(起)真理の二面性について学んでいきたいと思います。

(承) 私は使徒行伝を読みながら、13:44の「全市を上げて、絶対主の言葉を聞きに集まって

きた
」
というこの御言葉は、決して他人事ではなく、「私たちの内に、その通り起ってくることだ」

という期待感を抱きました。それだけではなく、私たちは今現実に、「聖書に書いてあることは、

今日も起る」ということを経験させられています。例えば10章を見ると、コルネリオの幻の中に

御使いが現れ、御使いの言葉を聞いたとありますが、私たちも同じように、御使いの言葉を聞く

ということを現実に味わい、又、御使いを見ています。それ以外にもあります。それは、御霊の声

と悪霊の声の二つを聞いています。私たちはいろいろな事を通して、御霊だけではなく、

悪霊も語りかけてくるということを経験しました。ですから、私たちは御霊の声と悪霊の声を

しっかり見極めなければいけません。その見極める時に大切なことは、頭ごなしに否定するの

ではなく、まずはありのまま聞いて、主の前に判断することです。それは、ペテロさんの時も

同じように、必ず事の次第がはっきり見えてきます。真理の二面性を理解することについても

同じです。私はある時期から、神学校で学んだことや、今までの自分が持っていた固定概念を

一旦全部横に置いて、聖書を読むことにしました。そして、見えてきたことは、聖書には

二面性があるということです。


(転) では、真理の二面性とはどういうことなのか、考えてみたいと思います。

�U列王記5章に、ナアマン将軍のことについて出てきます。彼は、らい病に冒されていましたが

癒され、絶対主の存在を知りました。そして、「絶対主に仕えていきたい」という気持ちを

持ちました。しかし、そのためには、彼にとって難しい問題がありました。それは、自分が

仕えている王が、リモンの神殿に礼拝をしに行く時、自分も付いて行かなければならない

ということでした。もちろん行きたくないのですが、将軍である立場上、行かないと言う訳にも

いきません。

 ところが、その時エリシャが彼に言った言葉は、以外にも「安心して行きなさい。」だった

のです。では、偶像礼拝をしても良いということなのでしょうか?私はこの所が分かりません

でした。しかし今回、隠れキリシタンの件を通して教えられました。彼らはイエス様を信じて

いましたが、そのことを隠し、お寺には自分の名前を届け、葬儀などもお寺で行っていました。

毎年、正月になれば踏み絵も踏んでいました。イエス様を信じていながら、外見では偶像礼拝

をやっていたのです。しかし、そのような人たちは即座に絶対主の裁きかといったら、実は

そうではなかったのです。彼らは見つかって捕まった時、どんなに恐ろしい拷問を受けても、

最後までイエス様を信じる心を失いませんでした。彼らのその心を見て、「わたしは彼らを

見放すことはできない」と、イエス様は言われました。それは、イエス様も同じところを

通られた方として、彼らの心が分からないわけではないからです。イエス様は十字架にかから

れる時、「この杯をわたしから取り除けて下さい」と言われました。イエス様も、私たちと

同じように、「この十字架苦しみから、遠ざかりたい」と思われたのです。しかしその後で、

「父の御心のままになさって下さい」と心を定め、ご自分を全部お捧げになりました。

ですからイエス様は、心の中の葛藤を決して無下にはなさらず、それさえも汲み取って

下さる方なのです。でも、だからといって偶像礼拝をしていいということではありません。

それは、律法から見るならば、絶対に赦されないことです。しかし、「律法では義とされる事

のできなかったすべてのことについて、信じる者は誰でも、イエス様によって義とされる」

のであり(13:39)、イエス様は私たちのすべての罪を赦すために来て下さったのです。

ここに真理の二面性があります。
ですから、一面だけで、絶対主の心は分かりません。

この二面性があって、初めて、その一つ一つの正しい真理を理解することができるのです。

即ち、絶対主の心知り、またイエス様の愛を知ることが出来るのです。


(結) ですから、絶対主の真実な心を知るために、すべてに二面性があるのです。

ですから、私たちがイエス様の前に心を定めて、身を差し出した時、初めて私たちは真実な

心が生まれ、平安も与えられます。自分の身を守って頂くのが救いだと、一方的に考えては

いけません。また、ただ主の前に遜るだけではいけません。遜るなら、身も差し出さなければ

成りません。
自分が助かりたいなら、自分の身を差し出すのです。いいでしょうか。

私たちは罪人ですから、「行いにおいて、何もかも全部やります」とは言えないのです。

しかし、「あなたに対して無条件に従います。聞いていきます」という、その心だけは

持てるのではないでしょうか。聖霊のバプテスマを前にして、絶対主が私たちに求めて

いるものは、それだけです。すると、「絶対主の言葉はますます盛んになり、どんどん

広まっていきます」。御使いの具体的な助けも受けていくようになるでしょう。

私たちの目の前で起こってくることは、使徒行伝以上のことです。主は、私たち一人一人に、

「あなたはこれをしなさい。私が共にいるのですから、大丈夫ですよ」と言って、使って

下さるのです。私たちは、イエス様の 働きに参加させていただけるのですから、

主の前に遜って、「使って下さい」と素直に身を献げていきましょう。




                                      

  
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