(起) 祈りについてイエス様が話されたところから、私たちも祈りについて学んでいきたいと
思います。
(承) さて、イエス様は祈りについて、「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。・・・」(2〜3節)と言われました。多くの人は、これを祈り
文のように唱えていますが、ただ唱和すれば良いのでしょうか。口だけで「主よ主よ」と言っても、
「わたしは、あなたを知らない」と言われるように、心のない祈りは、いくら祈っても叶えられる
とは思えません。祈りというのは、単なる言葉ではなく、私たちの心を創造主に向け語るものです。
祈りが乏しいのは、頭で祈っているからです。例えば、「日ごとの糧を今日もお与え下さい。」
という祈りですが、頭で考えたら、「昨日スーパーで買ってきているのに、こんな祈りは、おかしい
な。」と思いませんか!心がなければ祈る事がしらけてきます。ところが、気持ちを込めて、
「日ごとの糧は主からいただくんだ。」という意識をもって祈ってみて下さい。この心をもって
感謝して食べるなら、決して矛盾ではありません。イエス様が「こう祈りなさい。」と言って
おられる内容は、私たちの祈りの基本ですが、心が伴っていなければ意味がありません。しかし
心を込めて祈れば、中身の濃い祈りになるのです。また、イエス様は、譬え話を通して「祈りを
根気よく続けるように。」、また「しきりに頼み続けるように・・・。」(5〜8節)と言われ
ました。普通なら、「もう、みんな寝ているから、あげられない。」と断られたら引き返し
ませんか?しかし、イエス様は、「しきりに頼み続けなさい。」と言われるのです。
これはつまり、私たちもここまでイエス様に祈って、求めても良いということです。
嫌がっている人に求め続ける事は、頭で考えたらできません。しかし本当に欲しいなら、
とことん叫びをもって、欲しいと言っていいのです。その姿勢をイエス様は良しと言われました。
(転) では、自分の不信仰の心を変えることについてはどうでしょうか。皆さんは、自分自身の
心を、祈って変えてもらうことができると思いますか? 私は、高校生の時にバイブルキャンプに
参加し、毎日メッセージを聞いていました。そして「信じたい。」と思いましたが、信じるという
方向に心が向かず、信じることができませんでした。そこで私は、未信者でしたが祈りました。
誰に祈るかも分かりませんでしたが、「信じたいんです。信じれるように助けてください。」と
祈りました。すると不思議に、キャンプの4日目の夜に信じる心が湧いてきたのです。
私は、こんな祈りが聞かれるとは思っていませんでした。しかし、創造主は聞いていて下さった
のです。私は、「心の問題は祈ったってだめだ。自分の心は自分で決めるのだから、祈って
変わるものじゃない。」と思っていました。しかし、自分の心も祈って変えてもらわなければ、
変わらないのです。私たちは、自分自身の心さえ、思い通りにはなりません。そうしたいのに、
心が定まらないのなら、「主よ、私の心をはっきりさせて下さい。」と祈ってみて下さい。
そのように祈れば、それは心の叫びですから、主はそのようにさせて下さいます。今までは、
「自分の弱さを認めたら、終わってしまう。」と思っていましたが、弱さを見ずしてどうやって
クリスチャンとして生きていくんですか。律法学者たちのように強がって表面だけで生きていく
のでしょうか?救われてもクリスチャンは罪人です。臆病で気の弱いだめな人間。これは死ぬまで
変わりません。しかし、そんな私たちをイエス様が救って下さったのですから、自分自身の弱さ
を認めた上で、イエス様にあって祈りつつ、前向きに生きていくのがクリスチャンです。
「そう言われればそうだと思うけど、できそうもない。」と思うのなら、祈るべきです。
自分自身の心の問題さえも、へりくだってイエス様にお願いし、変えてもらうのです。
そして、心の壁をイエス様に破ってもらいましょう。
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