『知らずに拝んでいる神』
ロマ書1章19~32節
① 神(創造主)と自分自身との関わりについて考え、罪からの救いについて学びたいと思います。
② さて、教会では、神(創造主)という言葉がよく出てきますが、神と自分との関係が気になる
ところです。「神って本当にいるのかな」と疑問に思いながらも、日本の国では、日常生活の中で
当たり前のように神という単語が飛び交っています。神社・仏閣に行けば、どこにでも神があり、
拝む対象は八百万があります。そういう意味では、日本人にとっては、神という言葉は慣れ親しん
でいる言葉です。しかし、その神が本当にいるのかどうかと確かめる人は、まずいません。
しかし、私たちは自分の人生を、全て知り尽くすことは出来ませんから、不安材料はたくさん
あります。ですから、私たちは、人間の力以上の方に願い事をささげ、頼るという事を無意識の
うちにやっています。本当に聞いてくれるかどうかは分からないのですが、困ったときには、
神々に頼るしかありません。そこで、今日は、私たちが知らずに拝んでいる神とはどういう
ものかを、学んでみたいと思います。
③ では、私たちの存在について考えてみましょう。
先ず言える事は、私たちは偶然には存在できないということです。進化論では、命のスタートは
偶然だと主張しています。ところが、たといそうだとしても、今のようなかたちに進化するには、
時間が足りないと言われています。そこで、地球外生命体が地球にやって来たという説が、
ブームを呼んでいます。しかし、地球に到達するためには、超高熱の大気圏を突破しなければ
ならず、これも無茶な説といえます。そもそも、命が誕生するということは大変なことであって、
見当もつきません。人間の体の仕組みの素晴らしさを見るとき、存在させた方がいて始めて命は
存在できることが分かるのです(20節)。
例えば、私たちの体の隅々まで張り巡らされている血管は、全長10万キロ(地球の2.5周)
あり、それが絡まることも詰まることもなく活動しているのです。又、私たちの目の仕組の凄さも、
知れば知るほど、その完璧さに驚嘆してしまいます。光の強弱、色の識別は、網膜の後ろにある
1億2千万本の細胞によってなされています。さらに、単細胞生物が持っているモーターは、
エネルギー効率100%の精巧なものです。とても偶然に出来たとは考えられません。偶然とは、
秩序のない、デタラメということです。だから、私たちの体を知り尽くして、知識を持った方が
いないと造れません。実に、自然界も、地球も、全て秩序があり、偶然ではありません。命ある
もの、秩序あるものは全て創られたものであり、被造物なのです。このように、考えて仕組みを
創ってくださった創造主こそ、私たちの拝む対象なのです。
ところが人間は、知者であるといいながら、被造物である人間が作った目に見える像を拝み、
頼っています。しかし、人間がつくった物は人間以下であって、人間を助けることは出来ません。
④ 創造主から離れた人間は、自分さえ良ければいいと、自己中心な道を歩むようになりました。
ですから、最後の清算のときがあり、自分が蒔いたものは刈り取りをしなければならない時が
来ます。人間は自分の罪の処理を自分ですることは出来ませんから、創造主は、独り子である
イエス様によって救ってくださるのです。イエス・キリストの十字架は、自分の罪の身代わりの
ためだと信じて受け取るとき、救われます。そのとき私たちは、罪の赦しを体験できるのです。
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