『主の側から物事を見る』
ヨハネ11章17〜46節
@ ラザロの甦りを通して、創造主の側から物事を見、考え、判断していく私たちの生き方に
ついて学びたいと思います。
A さて、イエス様は、ラザロが病気であるとの知らせを受けてから二日後に、ベタニヤに
向かって出発されました。イエス様が到着されたときには、すでに死んで墓に葬られていました。
ですから、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤは言いました。「もしあなたがここにいて下さった
なら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と。この言葉には、直ぐに来てくださらなかった
イエス様に対する不平不満の心が表されています。マリヤはこのことを泣きながら話し、
又彼女について来たユダヤ人たちも泣いていました。それをご覧になったイエス様は、霊の激しい
苛立ちと感情の高ぶりを覚えられたのです。
B では、イエス様は、何に対して、霊の苛立ちと感情の高ぶりを覚えられたのでしょうか。
ラザロの病の知らせを受けたときイエス様は言われました。「この病は死で終わるものではあり
ません。この病は、創造主の栄光のためのものです。これによって、人の子が栄光を受けるの
です。」と。さらに二日後に出発されるときには、「わたしたちの友、ラザロが眠りにつき
ました。しかし、わたしは彼を起こしに行きます。」と言われたのです。つまり、ラザロを
甦らせることは、主のお考えだったのです。
ところが、ベタニヤに来て見ると、マルタもマリヤも、直ぐに着て癒してくれなかった事への
不満を口にしました。そこにいた人々も、「あの盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なせ
ないでおくことはできなかったのか。」と、同じ様に不満を口にしたのです。ここに、人間の
不信仰な姿があらわにされています。自分自身と、目で見えることにしか目が向けられていません。
ですから、自分の感情や考えで判断して、不満を口にしているのです。この人間の頭の信仰に
対して、イエス様は苛立ちと感情の高ぶりを覚えられたのです。特にマルタの応答には、この
ことが顕著に現れています。マルタはイエス様を迎えに出たとき言いました。「あなたが創造主に
願い求めるなら、どんなことでも叶えて下さると知っています。」。さらに、「生きていて、
わたしを信じる者は、永遠に死ぬことはありません。あなたはこれを信じますか。」とイエス様
に言われたとき、彼女は、「はい、主よ。信じます。・・・」とハッキリと言いました。
ところが、墓の前に来て、イエス様が「石を取り除けなさい。」と言われると、「主よ。もう
臭くなっております。四日も経っておりますから。」と言って水をさしたのです。頭では信じて
いるように見せかけながら、心では信じていないことを暴露しました。もしマルタが心で信じて
いたなら、「あなたの兄弟は甦ります。」(23節)とイエスが言われたとき、こう言った
でしょう。「エッ、甦らせてくださるのですか?お願いします!」と。心で信じているなら、
イエス様の心を自分の心とすることが出来、「感謝します!」と言ったでしょう。しかし、
イエス様は、ご自分がしようとされていることに水をさしたマルタに言われました。「もし
信じるなら創造主の栄光を見ると、あなたに言ったではありませんか。」。イエス様の霊の
苛立ちは、正に、ここにあったのです。彼らが、主の考えからものを見ることをしなかった
からです。
C もし私たちが、自分の思いしか見ていないなら、イエス様の心を理解することは出来ません。
イエス様が常に父である創造主の側に立って物事を見、判断していたように、私たちも、主の側
に立って物事を見ていくなら、イエス様が何故、苛立ちを覚えられたのかハッキリと分かって
きます。私たちが常に主の側に立って見て行くためには、ヒガミやイジケなど自分の世界に
留まらずに、自分を捨てていくことです。そして、主の側からどうすべきかを判断していくなら、
人知を超えた体験をしていくのです。主の心を汲み取り、こうした体験をして行きましょう。
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